2015.07.09更新
太宰府天満宮
太宰府天満宮
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所在地
福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
位置
北緯33度31分17.49秒 東経130度32分5.45秒
主祭神
菅原道真公
社格
等
旧官幣中社
創建
延喜19年(919年)
本殿の
様式
五間社流造檜皮葺
札所等
菅公聖蹟二十五拝
例祭
9月25日
主な神事
鷽替え・鬼すべ(1月7日)
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、
福岡県
太宰府市
にある
神社
。旧
社格
は
官幣社
で、現在は
神社本庁
の
別表神社
。神紋は梅紋である。
菅原道真
(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る
天満宮
の一つ(天神様のお膝元)。
初詣
の際には
九州
はもとより
日本
全国から毎年200万人以上の参詣者がある。現在、
京都
の
北野天満宮
とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。
右大臣
であった菅原道真は
昌泰
4年(
901年
)に
左大臣
藤原時平
らの
陰謀
によって
筑前国
の
大宰府
に
権帥
として左遷され、翌々
延喜
3年(
903年
)に同地で
薨去
した。薨後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の
牛車
が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に
味酒安行
(うまさけのやすゆき)が
廟
を建立、天原山庿院安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、これを「道真の祟り」と恐れてその
御霊
を鎮めるために、
醍醐天皇
の勅を奉じた左大臣
藤原仲平
が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(
919年
)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀で
[1]
、
正暦
元年(
990年
)頃からは社号としての「天満宮」も併用された
[2]
。
寛和
2年(
986年
)、道真の曾孫
菅原輔正
によって鬼すべ神事が始められるようになった
[3]
。
文明
12年(
1480年
)に当地を訪れた
連歌師
の
宗祇
が『
筑紫道記
』にこの安楽寺天満宮のことを記しているが、道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。
明治
に入り、
近代社格制度
のもとで明治4年(
1871年
)に
国幣小社
に列格するとともに神社名を太宰府神社に変更した。これは北野天満宮が近代社格制度のもと「北野神社」に変更したのと同様に、「宮」号が基本的には
皇族
を祭神とする神社しか使用できなくなったからである。同14年(
1881年
)には
官幣小社
に昇格、次いで同28年(
1895年
)には
官幣中社
に昇格した。神社の国家管理を脱した
戦後
の昭和22年(
1947年
)に社号を太宰府天満宮に復した。
参道を登りつめた先には
延寿王院
があり、ここは
幕末維新
の策源地といわれ、
三条実美
たち公卿5人が3年半余り滞在した所である。
土佐
脱藩の
土方久元
や
中岡慎太郎
も滞在しており、
薩摩
の
西郷隆盛
や
長州
の
伊藤博文
、肥前の
江藤新平
、
坂本龍馬
なども来訪している。
太宰府天満宮・北野天満宮・
防府天満宮
を合わせて「
三天神
」と呼ぶ。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを
大阪天満宮
等とする説も存在する。
本殿は五間社
流造
で屋根
檜皮葺
。正面に1間の
唐破風
造の
向拝
(こうはい)を設ける。また、左右側面には各1間でこれも唐破風造の
車寄
を付け、
廻廊
が前方の
楼門
まで廻らされている。本殿は明治40年(
1907年
)5月27日に
古社寺保存法
に基づく特別保護建造物に指定され、昭和25年(1950年)
文化財保護法
施行に伴い
重要文化財
とされている。昭和41年(1966年)6月11日付で
棟札
9枚と板札2枚が重要文化財の附(つけたり)として指定されている。