2015.04.14更新
永平寺
承陽殿
所在地
福井県吉田郡永平寺町志比5-15
位置
北緯36度3分22.02秒
東経136度21分19.97秒
山号
吉祥山
宗派
曹洞宗
寺格
大本山
本尊
釈迦如来
・
弥勒仏
・
阿弥陀如来
創建年
寛元
2年(
1244年
)
開山
道元
開基
波多野義重
文化財
普勧坐禅儀(国宝)
梵鐘、道元禅師嗣書ほか(重要文化財)
山門、中雀門ほか(福井県指定有形文化財)
永平寺(えいへいじ)は、
福井県
吉田郡
永平寺町
にある
曹洞宗
の寺院。
總持寺
と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
山号
を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は
道元
、本尊は
釈迦如来
・
弥勒仏
・
阿弥陀如来
の三世仏である。
曹洞宗の宗祖道元は
正治
2年(
1200年
)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門
久我家
の
久我通親
であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である
比叡山
延暦寺
に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(
本覚思想
)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ
悟り
が得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本
臨済宗
の宗祖である
建仁寺
の
栄西
に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、
建保
5年(
1217年
)建仁寺に入り、栄西の直弟子である
明全
に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(
宋
)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども
貞応
2年(
1223年
)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の
如浄
に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら
坐禅
に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(
京都市
伏見区
)に
興聖寺
を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった
越前国
(福井県)の土豪・
波多野義重
の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元
元年(
1243年
)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は
白山信仰
に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(
1244年
)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(
1246年
)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した
後漢
明帝のときの
元号
「
永平
」からであり、意味は「永久の和平」である。
その後の永平寺は、2世
孤雲懐奘
、3世
徹通義介
のもとで整備が進められた。義介が
三代相論
で下山し4世
義演
の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応
3年(
1340年
)には兵火で伽藍が焼失、
応仁の乱
の最中の
文明
5年(
1473年
)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。