2016.09.24更新

八槻都々古別神社


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       都々古別神社

都々古別神社(つつこわけじんじゃ、八槻都々古別神社)は、福島県東白川郡棚倉町八槻にある神社式内社名神大社論社陸奥国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社
社記(慶長2年(1597年)の陸奥国一宮近津大明神縁起)によると、第12代景行天皇の時に皇子日本武尊が奥羽に至り八溝山の東夷を討った際、日本武尊を守護した3神が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れたので、尊は東方に箭を放ち箭の着いた地(箭津幾:やつき)に神社を創建したという。そして源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝える。
地名の「八槻」の語源伝承は『陸奥国風土記』逸文(大善院旧記所引)にも見え、日本武尊が東夷征伐の際に放った八目鳴鏑(鏑矢)が落ちた地が「矢着」と称されたが神亀3年(726年)に「八槻」に改めたとし、別伝として日本武尊が放ち8人の土蜘蛛(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので「八槻」になったともいう[18][4]。これらは、陸奥勢力のヤマト勢力への服属を日本武尊の東征に仮託して説明したものとされる。
なお、前述のように弘仁2年(811年)頃の陸奥・常陸間の新道設定に伴う創建と推測する説もある。
続日本後紀承和8年(841年)条の「都々古和気神」、ならびに延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳名神大社「都都古和気神社」の論社とされる。
中世からは山岳信仰が入って修験化し、別当の八槻家が管掌した。別当寺は大善院。この八槻は高野郡南郷一帯を掌握し、同じく北郷を掌握した馬場都々古別神社別当の高松家と並立したとされる。
近世には領主からの崇敬を受けて社領寄進・社殿造営があり、慶長9年(1604年)の文書によると神領高は200石あった。
明治維新後、近代社格制度では当初郷社に列したが、明治18年(1885年)4月に国幣中社に昇格した。明治期の神仏分離に際して境内の仏教系堂宇は廃されたが、別当の八槻家は継続して神職を担っている。戦後は神社本庁別表神社に列している。
所在地 福島県東白川郡棚倉町
八槻字大宮224
位置 北緯36度59分40.31秒
東経140度23分31.56秒
主祭神 味耜高彦根命
日本武尊
社格 式内社名神大論社
陸奥国一宮
国幣中社
別表神社
創建 (伝)第12代景行天皇年間
(一説に弘仁2年(811年)頃)
本殿の様式 流造
別名 八槻明神
近津明神(千勝明神)
札所等 近津三社
例祭 12月第2土曜
日曜(霜月大祭)
主な神事 御田植祭旧暦1月6日