2015.05.22更新
伏見城(伏見桃山城)
城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて桃山と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として桃山城と呼ばれる由来となった[注釈 1]。なお、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元の吉村家と伝えられている[12]。
伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられている。2009年2月20日、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われ、敷地内に4–5メートルの盛り土がなされていることが判明したが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかともいわれている[13]。
また、伏見城花畑跡は1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られた[14]。2003年1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与[15]されたほか、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備された。ただし、模擬天守については耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっており、バリアフリー対応などを含め改修に数億円かかるとされることから2012年10月時点でも具体的な活用予定は無い[16]。2007年10月、映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため東映が約1億円を負担し[17]、望楼の下に虎の装飾がなされたほか、鯱を金色に塗り替えるなど大坂城に見立てた改修がなされ、これらの装飾は撮影終了後も同年内はそのままとなっていた[18][19]
平成26年9月には復興天守築城50周年で記念行事が開催された[20][21]。
伏見城の遺構とされる建築は近畿地方の社寺を中心に多く存在しており、そのほとんどが秀吉時代の遺構とされている。しかし、指月山伏見城は地震で倒壊し、木幡山伏見城は兵火で焼失しているため、移築の伝承が事実である建物はわずかだと思われる。実際、指月山の遺構であることが裏付けられている西教寺客殿も地震で破壊された残材で構成されており、少なくとも秀吉時代の建築が完存する可能性は低いと考えられる。
徳川期の木幡山伏見城については廃城に際して天守を始め多くの建物が他の場所に移築され、二条城天守のほか、特に福山城(広島県福山市)には徳川幕府の西国鎮衛の目的もあり、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、土塀など多くの施設が移されている。なお、伏見城の建物ではないが「伏見」の名称を用いた建物として江戸城と大坂城の伏見櫓がある(ただし、その名称から伏見城の遺構との言い伝えが生まれている)[24]。