2016.02.08更新

治水神社


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        薩摩義士

所在地 岐阜県海津市海津町油島
位置 北緯35度8分39.8秒
東経136度40分4.9秒
主祭神 薩摩藩家老平田靱負
創建 1938年(昭和13年)
例祭 春季大祭(4月25日)
秋季大祭(10月25日)

治水神社(ちすいじんじゃ)は、岐阜県海津市海津町油島にある神社である。
水難避け、家内安全、交通安全にご利益があるという。
祭神は、薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)。及び薩摩藩士84名。
平田靱負は、宝暦4〜5年(1754年1755年)、薩摩藩が幕府の命で行なった、木曽三川分流の治水工事(宝暦治水)の責任者であった。治水工事が終わると、莫大な工事費用と数多くの藩士が亡くなった事の責任を取り自害している。

薩摩義士(さつまぎし)は、江戸時代美濃国揖斐川長良川および木曽川の3川の治水難工事に、多大の犠牲をはらって、したがった薩摩藩の人々。宝暦治水の義士ともいう。
1753年(宝暦3年)12月25日江戸幕府老中西尾忠尚は薩摩藩に命じて濃尾地方の木曽川、長良川、揖斐川の3河川の治水事業にあたらせた。これは幕府の、雄藩をあまり富裕ならしめないための政策手段でもあったが、この3河川は、その流域が今日の長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の五県にわたり、とりわけそのうち南北15里、東西2里では、多くの本支流が交錯し、容易ならざる難事業であった。そのうえ寛保年間以後、11年間にわたって洪水が頻発し、惨状を呈していた。
そのために幕府の厳命、督促は猶予がなく、薩摩藩は死力をつくしてこれにあたった。藩主島津重年の命によって家老平田靱負正輔、大目付伊集院十蔵久東らが工事を担当し、留守居山沢小左衛門盛福、普請奉行川上彦九郎親英らとともに、美濃国大牧村を本陣として、1754年(宝暦4年)2月5日から工事に着手し、5月22日ひとまず工事を中止し、同年9月21日さらに勘定頭倉橋武右衛門が参加し、翌1755年(宝暦5年)3月28日ついに工事を完成し、幕府目付牧野織部、勘定吟味役細井九郎助らあらたに江戸からくだった検使は、地元の検使とともに、同年4月16日から5月22日まで、一ヶ月余にわたって本検分をすませた。
薩摩藩はこの工事で、数十万両もの莫大な経費を負担した。幕府側の妨害工作などによる過労のため病となり生命を落としたり、あるいは横暴な幕府側への抗議のために切腹して果てる者を多数出した。総奉行平田靱負は工事完遂を見届け、この難事業の責任を取る形で切腹した。藩主重年も後を追う様に病没した。
1938年(昭和13年)に、平田靱負ら85名の「薩摩義士」を、「祭神」に『治水神社』(岐阜県海津市海津町油島)が建立された。