2016.02.03更新

圓教寺

         御詠歌


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      摩尼殿(山麓駅)

所在地 兵庫県姫路市書写2968
位置 北緯34度53分28.1秒 東経134度39分29.3秒
山号 書寫山(しょしゃざん)
宗派 天台宗
寺格 別格本山
本尊 如意輪観音(摩尼殿安置)
創建年 康保3年(966年
開基 性空
正式名 書寫山 圓教寺
別称 西の比叡山
札所等 西国三十三所27番
播磨西国三十三箇所1番
播州薬師霊場16番
神仏霊場巡拝の道 第75番
文化財 大講堂、鐘楼、釈迦如来及び両脇侍像、
阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市書写山にある寺院で、天台宗別格本山である。山号は書寫山(書写山、しょしゃざん)。西国三十三所第27番。現住職は第140世。
「西の比叡山」とよばれるほど寺格は高く、西国三十三所中最大規模の寺院で、中世には比叡山大山とともに天台の三大道場と並び称された巨刹である。京都から遠い土地柄でありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇法皇も多かった。
境内は、仁王門から十妙院にかけての東谷、摩尼殿を中心とした中谷、三つの堂のある西谷に区分される。伽藍がある書写山(標高371m)山上一帯は兵庫県指定書写山鳥獣保護区の特別保護地区に指定されている。
山内には姫路藩本多氏の墓所である本多家霊所があり、本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子宮本三木之助などの墓もある。室町時代から明治時代までは女人禁制だったため、女性は東坂参道の入り口にある女人堂(現・如意輪寺)までしか行けず、そこに札を納めて帰っていた。
また近年では、2003年公開のハリウッド映画『ラストサムライ』、NHK大河ドラマ武蔵』(2003年)や『軍師官兵衛』(2014年)のロケ地にもなった。
書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝える。元は素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」と言われ、性空入山以前よりその地には祠が祀られていたと言われる。山号の由来はこの「素盞」からのものと言われ、創建当初は「書写寺」と称した。姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左」も素盞に由来する。
性空の生年については西暦910年説、928年説があるが、いずれも没年からのものだが、98歳説、80歳説による。『性空上人伝記遺続集』によれば、性空は延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出であったという。性空は出家した時はすでに36歳であり、それから約20年間、霧島山脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求めて旅に出、康保3年(966年)、57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるという。『遺続集』によれば、天人が書写山内の桜の霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空は、弟子の安鎮に命じて、生木の桜に如意輪観音の像を刻み、それを覆うように堂を建てた。これが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建で、天禄元年(970年)のことという。性空の伝記や説話は、前述の『遺続集』のほか、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにもみえる。それらによると、性空は俗事を厭い、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという。中でも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)来山して圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに大講堂を建立したという。花山法皇以外にも、後白河天皇後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立がおこなわれている。
圓教寺の境内は、姫路市街の北方に位置する書写山(371メートル)の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高もさほど高くないが、境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する。古来、書写山への登山道としては、東坂、西坂、六角坂、刀出坂(かたなでさか)、鯰尾坂(ねんびさか)、置塩坂(おしおさか)の6つのルートがあったが、1958年に東坂に沿ってロープウェイが開通してからは、ロープウェイ山上駅から仁王門を経て、本堂にあたる摩尼殿へ上る参道がメインルートとなっている。
境内地は、明確な境界線はないが仁王門などのある「東谷」、摩尼殿付近の「中谷」、大講堂、食堂(じきどう)、常行堂、奥之院などのある「西谷」に分けられる。西国三十三所観音霊場の札所でもある摩尼殿が一山の中心となる堂であるが、大講堂や開山性空の像を祀る奥之院も、信仰上重要である。
花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形は徳において欠けたところがなく、人間として最も成就した状態を象徴していることから、自己完成の道を教える寺ということになる。性空と結縁した法皇は、性空の姿に崇高な僧侶本来の姿を見たのであろう。
武蔵坊弁慶は一時期書写山で修行したとされており、机など、ゆかりの品も伝えられ公開されている。ただし史実である確証はない。 一遍一向俊聖国阿時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。

         摩尼殿

         大講堂

         根本堂

          開山堂