2015.05.02更新
広島城
別名
鯉城、在間城、当麻城
城郭構造
輪郭式平城
天守構造
複合連結式望楼型5重5階(
1599年
・非現存)
外観復元(
SRC造
・
1958年
再)
築城主
毛利輝元
築城年
1589年
主な改修者
福島正則
主な城主
毛利氏、福島氏、浅野氏
廃城年
1874年
遺構
石垣、堀
指定文化財
国の史跡
再建造物
大天守・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門
位置
北緯34度24分10.13秒東経132度27分32.28秒
広島城(ひろしまじょう)は、
広島県
広島市
中区
基町
にある
日本の城
跡。国の
史跡
でもある。
日本100名城
の一つ。最も広かった時代の
曲輪
のうち内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、広さ約12万m
2
[2]
。
大坂城
や
岡山城
らと共に初期
近世城郭
の代表的なものである
[3]
。
名古屋城
、岡山城と共に日本三大平城
[4]
とも言われる。
江戸時代
では西日本有数の所領となった
広島藩
42万6000石の太守
浅野家
12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』で知るところでは、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。1598年に毛利輝元によって創建された大天守は、1945年に倒壊するまで現存天守の中では
岡山城
天守に次ぐ古式を伝えるもので、下見板張りや最上階に高欄を持つ外観の仕様は国宝保存法下の国宝指定(1931年)の理由の一つとなった
[5]
。
近代
は軍都広島の中心施設であった。
日清戦争
時に、本丸に
大本営
が置かれたという稀有な歴史を持っている。アメリカ軍による
広島市への原子爆弾投下
の際には破壊目標地点となった。また天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく、建物の自重により自壊したことが近年の研究で判明している。
周辺は都市開発により城跡の面影はなく、城址公園域以外で確認できる
遺構
は、
広島高等裁判所
敷地内にある中堀土塁跡と、
空鞘橋
東詰南側の櫓台石垣程度である
[6]
。
広島市中央公園
内の一施設
[7]
であり、広島城全域が広島城址公園(ひろしまじょうしこうえん)となっており、復元された大天守は歴史
博物館
として利用されている。公園全体は
公益財団法人
広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)は
公益財団法人
広島市文化財団
が
指定管理者
として、
広島護国神社
は同神社、堀は広島市がそれぞれ管理している。