2015.07.02更新

敢國神社(あえくにじんじゃ)

        敢國神社


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所在地 三重県伊賀市一之宮877
位置 北緯34度47分14.52秒 東経136度09分50.18秒
主祭神 大彦命
社格 式内社(大)
伊賀国一宮
国幣中社
別表神社
創建 (伝)斉明天皇4年(658年
本殿の様式 流造
例祭 12月5日
主な神事 獅子神楽舞初祭(1月3日
獅子神楽舞上祭(4月17日
敢國神社(あえくにじんじゃ)は、三重県伊賀市一之宮にある神社式内社(大社)、伊賀国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社
延喜式神名帳の記載に見えるように元々の祭神は1座で、国史に「敢国津神」とあるように「敢(あえ:旧阿拝郡一帯)の国津神」が本来の祭神であったと見られている[2]。一帯に勢力を持った阿閇氏(敢氏/阿閉氏)の氏神とも、円錐形をなす南宮山(伊賀富士)が神奈備として祀られたものとも推測される[3]
中世に入ると、この神に人格神として金山比当スまたは金山比古命をあてる説と、少彦名命にあてる説とが生じた[2]。金山比当スをあてる説は、南宮山に対する信仰に基づくと見られ、古くは室町時代末期の『大日本国一宮記』や『延喜式神名帳頭註』に記載が見える。美濃国一宮の南宮大社岐阜県不破郡垂井町)との関連伝承を記す文献もあるが、その傍証は欠いており詳らかではない[2]。一方、少彦名命は開拓神として知られる神で、『梁塵秘抄』に「伊賀国にはおさなきちごの宮」と見えることから、平安時代末期には少彦名命説が確立したと見られている[2]。以後、室町時代末期から江戸時代の間は、金山比当ス・少彦名命の2神説、またはこれらに甲賀三郎を加える3神説が定着していた[2][3]
江戸時代の正徳3年(1713年)になると、度会延経が『神名帳考証』において大彦命を祭神とする説を唱えた[2]。この説は、『日本書紀孝元天皇紀や『新撰姓氏録』阿閇臣条に大彦命が阿閇氏祖として記されることに基づく[2]。後にこの大彦命説が取り入れられて甲賀三郎は廃され、明治以降は大彦命・少彦名命・金山比当スの3神説が定着し現在に至っている[2]
社伝[1]では、斉明天皇4年(658年)の創建になるとする。これによると祭神の大彦命は四道将軍として北陸地方を平定し、その子孫は伊賀国阿拝郡一帯に居住して阿閇氏(敢氏/阿閉氏)を称し、大彦命を祖神として祀ったという。また、それとは別に少彦名命を祀る秦氏一族があり、これら2柱をもって創建されたとする。創建当初は、敢國神社南方の南宮山山頂付近に祀られたが、後に現在地(南宮山山麓)に遷されたという。その後、山頂附近の社殿跡には南宮大社より勧請された金山比当スが祀られたため、その山が「南宮山」と呼ばれたともいう。そして貞元2年(977年)、金山比当スの社殿前の神木に言葉が現れたことにより、金山比当スを敢國神社に合祀したとしている。
実際の古代祭祀については、南宮山が円錐形を成す典型的な神奈備であることから、この南宮山に対する原始信仰に始まったと見られる[3]。特に敢國神社南方200メートル付近に大岩(「黒岩」とも)が存在したことから、これを磐座として南宮山を遥拝する形の祭祀が行われたものと推測されている[3]。この大岩は現在は失われているが、付近には大岩古墳があり、古墳時代の祭祀の存在が指摘される[3]。同地にはかつて大石明神(大岩明神)が祀られ、これがかつての祭祀の根本であったと見られるが、同社は現在は敢國神社境内に遷され「大石社」として祀られている[3]