2014.12.05更新
石山寺
大伽藍
御詠歌
所在地
滋賀県大津市石山寺1-1-1
位置
北緯34度57分37.51秒
東経135度54分20.25秒
山号
石光山
宗派
東寺真言宗
本尊
如意輪観音
創建年
天平
19年(
747年
)
開基
良弁
、
聖武天皇
(勅願)
札所等
西国三十三所
13番
江州三十三観音1番
近江三十三観音3番
神仏霊場巡拝の道
146番(滋賀14番)
文化財
本堂、多宝塔、釈摩訶衍論他9件(国宝)
東大門、鐘楼他(重要文化財)
珪灰石(国の天然記念物)
石山寺(いしやまでら)は、
滋賀県
大津市
石山寺1丁目にある
東寺真言宗
の
寺
。本尊は
如意輪観音
、開基(創立者)は
良弁
。当寺は京都の
清水寺
や
奈良県
の
長谷寺
と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、
西国三十三所
観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『
蜻蛉日記
』『
更級日記
』『
枕草子
』などの文学作品にも登場し、『
源氏物語
』の作者
紫式部
は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「
近江八景
」の1つ「石山秋月」でも知られる。
石山寺は、
琵琶湖
の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る
瀬田川
の右岸にある。本堂は国の
天然記念物
の
珪灰石
(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は
日本の地質百選
に選定)。
『
石山寺縁起絵巻
』によれば
[1]
、
聖武天皇
の発願により、
天平
19年(
747年
)、
良弁
(
東大寺
開山・別当)が
聖徳太子
の念持仏であった
如意輪観音
をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、
吉野
の
金峰山
に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(
蔵王権現
)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)
弥勒菩薩
がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。
近江国
志賀郡
の湖水の南に
観音菩薩
の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、
比良
明神(≒
白鬚明神
)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅
如意輪観音
像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)
陸奥国
から黄金が産出され、元号を
天平勝宝
と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけだが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。(その他資料としては『
元亨釈書
』
[2]
や、後代だが
宝永
2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある
[3]
。)
その後、
天平宝字
5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。
正倉院文書
によれば、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、
淳仁天皇
と
孝謙上皇
が造営した
保良宮
が石山寺の近くにあったことも関係していると言われる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、
執金剛神
像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。
以降、
平安時代
前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、
聖宝
、
観賢
などの当時高名な僧が座主(ざす、「住職」とほぼ同義)として入寺している。聖宝と観賢はいずれも
醍醐寺
関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の
密教
化が進んだものと思われる。
石山寺の中興の祖と言われるのが、
菅原道真
の孫の第3世座主・
淳祐
(890−953)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。その理由は淳祐は体が不自由で、正式の
坐法
で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「
蜻蛉日記
」や「
更級日記
」にも描写されている。
現在の本堂は
永長
元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、
源頼朝
の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。