2015.12.20更新
居多神社
トップページへ戻る
居多神社
所在地
新潟県
上越市
五智6-1-11
位置
北緯37度9分59.18秒 東経138度13分23.41秒
主祭神
大己貴命
奴奈川姫命
建御名方命
事代主命
社格
等
式内社
(小)
越後国
一宮
旧
県社
創建
不詳
例祭
5月3日
居多神社(こたじんじゃ)は、
新潟県
上越市
五智にある神社。
式内社
、
越後国
一宮
で、
旧社格
は
県社
。
社名「居多」は、『
延喜式
』
神名帳
を始め諸文献で見られる古くからの表記である。訓について『神祇志料』では「ケタ」、九条家本・武田家本・吉田家本では「ヰタ」、『
神名帳考証
』では「コタ」と見えるが、現在では「こた」と読んでいる
[1]
。日本海沿岸に分布する
気多神社
の一社として古代には「けた」と呼ばれたとされ、「こた」「ゐた」と呼ばれるのは後世になってからと考えられている
[1]
[2]
。
なお「居」を「け」と読ませる古例では、古くは5世紀末の
稲荷山古墳出土鉄剣
の「獲居(わけ)」の銘がある
[2]
。
創建は不詳。『頸城郡延喜式神社考』では神代の古跡であると伝える
[4]
。社地は、
慶応
2年(
1866年
)まで現社地の北西約1キロメートルの身輪山(みのわやま)に存在した
[3]
。
前述(「
社名
」節)のように、居多神社は「気多神」を祀る神社と考えられており、
兵庫県
北部から
新潟県
にかけての日本海側に分布する
気多神社
の一社とされる(「
気多大社#気多苗裔神
」を参照)。この気多神は出雲の人々に信奉された神とされており、『
古事記
』での
大国主命
による高志国(
越国
;現在の北陸地方)の
奴奈川姫命
への妻問い説話と同様に、気多神の分布は出雲勢力の北陸地方への進出を物語ると考えられている
[3]
。
神社所蔵文書(伝『
日本後紀
』逸文)では
弘仁
4年(
813年
)に「居多神」の
神階
が無位から従五位下に昇叙されたといい、その後神階は
貞観
3年(
861年
)に従四位下に昇叙された
[4]
。
延長
5年(
927年
)成立の『
延喜式
』
神名帳
では、
越後国
頸城郡
に「居多神社」と記載され、
式内社
に列している
[4]
。また、『
朝野群載
』の
承暦
4年(
1080年
)6月10日記事では「気多神」として記載が見えるほか
[4]
[2]
、社伝では
承元
元年(
1207年
)に
親鸞
が越後国府に流罪になった際には居多神社に参詣したという
[3]
。
南北朝時代
以降は、居多神社は守護
上杉家
からの崇敬を受けて
越後国
の
一宮
に位置づけられたとされる
[4]
。居多神社を一宮とする史料は、
貞和
3年(
1347年
)の居多神社所蔵文書を初見として、他の居多神社文書や上杉家文書等にも散見される
[4]
。一方、越後国の一宮として知られる神社には
弥彦村
の
彌彦神社
がある
[5]
。これら越後国の一宮制の展開の詳細は明らかでないが、平安期までは「一宮」の呼称自体は使用していなかったものの彌彦神社が実質的な一宮であったと見て、南北朝期に居多神社が上杉家の崇敬を得て一宮を公称するとともに、彌彦神社側でも一宮を称し始めたとする説がある
[5]
。
貞和3年(1347年)には幕府から修繕費として田井保が与えられたほか、
観応
2年)(
1351年
)には越後守護・
上杉憲顕
から荒蒔保が寄進された
[4]
。また
文明
18年(
1486年
)には京都常光院の
尭恵
が(『北国紀行』)、
長享
2年(
1488年
)には京都
相国寺
僧の
万里集九
が居多神社に参詣している(『梅花無尽蔵』)
[3]
。『北国紀行』によると「ながさき(花ヶ前)」という神主が社務を担ったとあり、その言では居多神が
神功皇后
の
三韓征伐
の頃から北海擁護の神としてあらたかであるとしている
[3]
。この神主の花ヶ前氏は任用国司として越後国に下った有力在庁であったとされ
[5]
、現在まで神職を継承している。
戦国時代
には戦乱に巻き込まれており、
天文
2年(
1533年
)に
上杉定憲
によって社殿が焼かれ、同年に守護代・
長尾為景
は上杉定憲ら討滅を祈願して社殿再興を約した
[4]
。また
上杉謙信
の死後、
天正
6年(
1578年
)から始まった後継者争い(
御館の乱
)では
上杉景虎
方についたため
上杉景勝
方の攻撃を受けて社殿を焼失した
[4]
。この時に神官の花ヶ前盛貞・家盛父子は国外に逃亡し、盛貞は国外で死去したが、家盛は景勝の会津転封後に
堀秀治
が
春日山城
に入った際に帰国した
[4]
。
慶長
4年(
1599年
)には堀秀治から社領として13石が与えられ、
江戸時代
に入ってから慶長16年(
1611年
)には幕府から朱印地として100石が与えられた
[4]
。
慶応
2年(
1866年
)には身輪山の社地が
海岸侵食
によって崩壊し
[4]
、神霊は宮司宅に遷座し奉斎された
[6]
。
明治維新
後、
明治
5年(
1872年
)5月に
近代社格制度
において
郷社
に列し、明治6年(
1873年
)5月に
県社
に昇格した
[6]
。明治12年(
1879年
)に現在地に社殿が造営され遷座した
[6]
。この社殿は明治35年(
1902年
)に火災で焼失、明治40年(
1907年
)に仮社殿が造営された
[4]
。その後、
平成
20年(
2008年
)6月に本社殿が造営されて現在に至っている。