2017.03.22更新
宝戒寺
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佛母准胝尊
毘沙門天
地蔵尊
所在地
神奈川県鎌倉市小町3-5
位置
北緯35度19分19.9秒
東経139度33分28.8秒
山号
金龍山
宗派
天台宗
本尊
地蔵菩薩
創建年
伝・1335年(建武2年)
開基
伝・後醍醐天皇(開山は円観)
正式名
金龍山 釈満院 円頓宝戒寺
札所等
鎌倉江の島七福神
(毘沙門天)
鎌倉観音霊場
第二番
鎌倉地蔵尊霊場第一番
宝戒寺(ほうかいじ)は、
神奈川県
鎌倉市
にある
天台宗
の
寺院
。山号は金龍山。詳名を金龍山釈満院円頓宝戒寺と称し、
本尊
は
地蔵菩薩
。萩(
ハギ
)の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれる。
宝戒寺は
鶴岡八幡宮
三の鳥居前の道(横大路)を右に行った突き当りに位置する。寺域は
北条義時
以来の歴代の
北条得宗家
の屋敷地跡と伝える。
得宗家9代目当主で
鎌倉幕府
元
執権
(第14代)の
北条高時
は、
元弘
3年
5月22日
(
ユリウス暦
1333年
7月4日)、
新田義貞
の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の
東勝寺
で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の
建武
2年3月28日(同
1335年
4月22日)付の
足利尊氏
寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に
後醍醐天皇
が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・
円観慧鎮
を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による
建武の新政
が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されている。
建武2年寄進状から17年後の
1352年
(
観応
3年)に作成された足利尊氏寄進状案には、宝戒寺の造営料として
上総国
武射郡
小松村(現
千葉県
山武市
)と、
出羽国
小田島庄(現
山形県
東北部)の土地を寄進するとあり、この頃ようやく宝戒寺の造営が本格化したことがわかる。「惟賢灌頂授与記」という文書によると、2世住持の惟賢によって
灌頂
が宝戒寺で初めて行われたのが
1354年
(
文和
3年)であり、この頃にようやく寺観が整ったものと思われる。
鎌倉幕府が滅亡した
5月22日
に、
北条高時
の慰霊のために徳崇大権現会(とくそうだいごんげんえ)・大般若経転読会(だいはんにゃてんどくえ)が行われる。徳崇大権現として祀られている北条高時の御神像を権現堂から本堂に移して、大般若経を転読し、歌舞音曲を奉納する。大般若経の正式名称は
大般若波羅蜜多経
といい
三蔵法師
がインドから持ち帰った600巻に及ぶものである。