2017.03.10更新
浄智寺
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布袋尊
曇華殿
所在地
神奈川県鎌倉市山ノ内1402
位置
北緯35度20分0.2秒 東経139度32分47秒
山号
金峰山
宗派
臨済宗円覚寺派
本尊
三世仏(阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来)
創建年
1283年(弘安6年)
開基
北条師時
札所等
鎌倉三十三観音霊場
第31番
鎌倉地蔵尊霊場 第12番
鎌倉十三仏霊場
第6番(
弥勒菩薩
)
東国花の寺百ヶ寺 鎌倉9番
鎌倉江の島七福神
(
布袋尊
)
文化財
本文
参照
浄智寺(じょうちじ)は、
神奈川県
鎌倉市
山ノ内
にある
禅宗
の
寺院
。
臨済宗円覚寺派
に属する。
鎌倉五山
第4位。山号を金宝山(きんぽうざん)と称する。中世から江戸時代にかけて「金宝山」と「金峰山」が混用されてきた(出典:『鎌倉の地名由来事典』三浦勝男編 東京堂出版)。本尊は
阿弥陀如来
・
釈迦如来
・
弥勒如来
の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されている。
鎌倉幕府
第5代
執権
・
北条時頼
の3男である
北条宗政
の菩提を弔うために、
弘安
6年(
1283年
)に創建された。開基は宗政の子・
北条師時
としたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・
北条時宗
による創建である。開山は日本人僧の
南州宏海
が招かれるが、宏海は尊敬する宋出身の高僧
兀庵普寧
と導師の
大休正念
を開山にして自身は準開山になる。なお兀庵普寧は
文永
2年(
1265年
)に中国に帰国し、浄智寺開山の7年前に没している。
その後、
高峰顕日
や
夢窓疎石
らの名僧が住持し、最盛期には
七堂伽藍
を備え、
塔頭
も11寺院に達した。
元亨
3年(
1323年
)の
北条貞時
13年忌には浄智寺からの参加僧衆は224人に達したと記録にあり、当時浄智寺の総人員は僧侶以外も加えると500人ほどに及んだとみられる。発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われる。
鎌倉幕府滅亡後も寺勢は衰えず、
延文
元年(
1356年
)には火災で創建時の
伽藍
を失うが、
室町時代
にもまだかなり大きな寺で、
上杉禅秀の乱
のあとの
応永
24年(
1417年
)に
足利持氏
が
鎌倉
に戻ったとき、まず浄智寺に入り2か月以上滞在した。また持氏の子・永寿王(後の
足利成氏
)が
宝徳
元年(
1449年
)に鎌倉に入ったときも浄智寺に滞在したなども寺の規模の大きさを示している。
しかし、
15世紀
半ばころから都市鎌倉そのものの衰亡と足並みをそろえて徐々に荒廃し、なお
江戸時代
末まで塔頭8院を維持したが、
大正
12年(
1923年
)の
関東大震災
でその大部分が倒壊し、今日の伽藍は概ね
昭和
になってから復興された。
東慶寺
の東、
建長寺
の西南の谷戸(やと。鎌倉に多い山あいの狭小平地のこと)に位置し、参道は
砂岩
の一種である
鎌倉石
で舗装されている。重層一間一戸の
三門
は、上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式のもので、花頭窓をあしらった中国風の意匠が特徴である(近年、この門は全面的に改築されてまったく新しくなった)。この門をくぐったところに、
本尊
の三世仏を安置する曇華殿(
仏殿
)がある。境内は樹木が豊かで起伏に富み、
鎌倉江ノ島七福神
の一である
布袋
の石像をまつる洞窟もある。本堂の裏の墓地には、
澁澤龍彦
の墓がある。澁澤龍彦の本名は龍雄であるが、墓には龍彦と刻まれている。
境内入り口にある湧き水は
鎌倉十井
のひとつ「甘露の井」である。また、寺の裏山からは
源氏山
に抜けられる。
寺域は全山が1966年(昭和41年)2月28日、国の
史跡
に指定されている。