2017.03.11更新
浄光明寺
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寶冠阿弥陀如来
所在地
神奈川県鎌倉市扇ガ谷2-12−1
位置
北緯35度19分35.1秒
東経139度33分4.2秒
山号
泉谷山(せんこくざん)
宗派
真言宗泉涌寺派
本尊
阿弥陀三尊
創建年
建長
3年(
1251年
)
開山
真阿
開基
北条時頼
・
北条長時
札所等
鎌倉三十三観音霊場
第25番
鎌倉地蔵尊霊場 第16番・第17番
鎌倉十三仏霊場
第9番(
勢至菩薩
)
新四国東国八十八箇所
第82番
文化財
阿弥陀三尊像(国の重要文化財)、地蔵菩薩立像(県重要文化財)
浄光明寺(じょうこうみょうじ)は、
神奈川県
鎌倉市
扇ガ谷
(おうぎがやつ)にある
真言宗泉涌寺派
の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。開基は
北条長時
。開山は真阿。本尊は
阿弥陀如来
である。
北条氏
や
足利氏
とゆかりの深い寺院で、
足利尊氏
は
後醍醐天皇
に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。
新四国東国八十八ヶ所霊場
の第82番。
鎌倉七口
のうちの
亀ヶ谷坂
(かめがやつさか)と
化粧坂
(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷、泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。寺伝によれば、建長3年(1251年)頃、第5代執権
北条時頼
、第6代執権
北条長時
が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、
源頼朝
の命により
文覚
上人の建てた草庵があったともいうが、定かでない。
永仁
4年(1296年)の開山(真阿)譲状には北条時頼と長時が開基であると記されている。長時は
鎌倉幕府
6代
執権
で、
文永
元年(1264年)、36歳で死去し、浄光明寺に葬られ、以後、この寺は長時に始まる
赤橋流北条氏
の菩提寺と位置づけられた。開山の真阿は
浄土宗
系の僧であるが、当寺は創建当初から兼学(複数の宗派が並存)の寺であり、3世の高恵(智庵和上)の時から四宗兼学となって近世末に至っている(「四宗」は必ずしも4つの宗派に限らず、真言、天台、浄土、華厳、禅、律を含む)。この高恵の時代、
元弘
3年(1333年)には
後醍醐天皇
から
上総国
山辺郡
(
千葉県
東金市
)と
相模国
波多野荘(
神奈川県
秦野市
)の寺領を寄進されており、また同年には
成良親王
(なりよししんのう、後醍醐皇子)の祈願所ともなっている。
浄光明寺は中世を通じ、足利氏および
鎌倉公方
の帰依を受けている。すなわち、暦応元年(1338年)以降、足利尊氏および弟の
足利直義
より相模国金目郷(神奈川県
平塚市
)、上総国山辺郡(千葉県東金市)、
伊豆国
三津庄(
静岡県
沼津市
)などの寺領の寄進を受けている。また、直義は康永3年(1344年)と観応2年(1351年)に
仏舎利
を寄進している。尊氏は、建武2年(1335年)、後醍醐天皇に叛旗をひるがえして挙兵する直前、天皇への謀反の意思がないことを示すため浄光明寺にて謹慎していたとも伝えられる。この当時の境内の様子は「浄光明寺敷地絵図」(後述)により具体的にわかる。
室町時代
に入り、
足利満兼
(鎌倉公方)は、
応永
6年(1399年)、父・
氏満
と祖父・
基氏
の遺骨を分けて浄光明寺に安置し、以降、当寺は鎌倉公方の菩提寺となった。
天正
19年(1591年)には
徳川家康
より4貫800文が与えられている。
往時は10近い子院があったが、江戸時代に入ると伽藍は荒廃、本堂さえ失われる状態であったという。
寛文
8年(1668年)、僧侶の勧進、
鶴岡八幡宮寺
相承院元喬僧都の援助などを得て仏殿を再興、法灯は保たれた。子院に関しては、幕末には慈恩院を残すのみであったという。慈恩院は、足利直義が自ら殺害させた
護良親王
の鎮魂のために建立したもので、浄光明寺に現存する地蔵菩薩像(通称矢拾地蔵)は慈恩院に伝わったものという。
山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫がある。
重要文化財
の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されている。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている
冷泉為相
(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓がある。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。