2015.04.15更新
石浦神社
石浦神社
所在地
石川県金沢市本多町3丁目1-30
位置
北緯36度33分40.3秒
東経136度39分35.4秒
主祭神
大物主大神
社格
等
式内小社論社・旧県社
創建
伝天平年中(729〜748年)
本殿の
様式
流造
例祭
10月2日
石浦神社(いしうらじんじゃ)は、
石川県
金沢市
に鎮座する
神社
である。
旧社格
は
県社
。『
延喜式神名帳
』
加賀国
加賀郡
の小社「三輪神社」に比定される
式内社論社
で、金沢市最古の神社であるともされる。
越前国
加賀郡に住む三輪の氏子が
奈良時代
に居住地に社祠を建て、
大和国
大神神社
の神霊である大物主大神を
勧請
し「三輪神社」と号したのが起源であるとか
[1]
、
聖武天皇
の
天平
11年(
739年
)5月に勅を以て創建したとか、
花山天皇
の勅を以て創建した、或いは
養老
年中(717-723年)に松浦氏の女性が大和国の
長谷観音
を勧請して創建した加賀石浦の長谷観音堂が前身であるなどと伝承されている。このように諸説があるが、古来より加賀郡石浦郷七ヶ村の
総社
として崇敬を集め、延喜の制で加賀郡13座中の「三輪神社」に列した式内社であるとされる
[2]
。やがて
本地垂迹説
による
神仏習合
の思想が起こるに及んで、当社に勧請した大物主大神が
近江国
日吉神社
の神と同体であるので、当社を「石浦山王」、或いは「地主権現」と称した。また、大神神社の
神宮寺
である
大御輪寺
の
本尊
が
十一面観音
である関係から、本社の
本地仏
も十一面観音とし、「大和国長谷観音」と号し、
寛永
年間(1625-1643)末には、「長谷山慈光院」と改め、
別当社僧
が奉仕していた。創建当初(奈良時代)の社地は、下石浦村(今の長町3番丁辺り)の地で、
江戸時代
の藩士(浅香氏・由比氏)の邸地の一区域とも、西外惣構堀藪ノ内の藩士高畠石見守の旧邸があったとも伝えられ、
室町時代
にはここに大きな社殿があった。
天正
8年(
1580年
)、
佐久間盛政
が
加賀一向一揆
の拠点である
金沢御坊
を攻略した時、兵火に遭いことごとく焼失した。その時、神体と仏像を
合祀
していたが、本地仏十一面観音は小立野の山崎村の愛宕社に安置し、その後、
卯辰山
の観音院に移した。
慶長
6年(
1601年
)、
加賀藩
2代藩主
前田利長
から
本多町
に社地600余歩を賜り、翌年3月29日、一向一揆の首領であった
山本若狭守家芸
が拠点としていたといわれる上石浦村(現在の下本多町3番丁)の旧
石浦砦跡地
に社殿を再興し、ようやく石浦村に帰座した。
元和
元年(
1615年
)、この地が藩老
本多安房守政重
の
下屋敷
となった際に邸地内に編入された。
寛保
3年(
1743年
)12月には、社地170歩が加増され、770余歩となった。
『国事雑抄』所収の
寛延
2年(
1709年
)2月、
慈光院
より
宝幢寺
宛の文書には、「当社者山王権現惣本地薬師如来・客人大明神(菊理媛神)本地十一面観音・市姫宮(市杵島姫神)本地如意輪観音、右之三尊者往古天平年中より安置仕候」とある。
氏子
地域は、石浦郷七ヶ村(石浦村・笠舞村・保島村・朱免野村・木新保村・今市村・山崎村)で、現在の
武蔵ヶ辻
付近から
犀川
の左岸に至る広大な地域であった。このように、当社は金沢城地の
産土の神
として、また城の
鎮守神
として歴代の加賀藩主の崇敬も厚く、2代藩主利長は社殿を再建、5代藩主
綱紀
の時は妻女の出産に際し安産を祈願し、以来安産の神としても人々から厚く信仰されている。藩老五万石の
本多氏
も、当社が元は下屋敷地内にあったために祈祷所となし、初代政重が
寛永
18年(
1641年
)3月に200両を当社に寄進したのをはじめ、2代
政長
・6代
政行
・8代
政礼
らが社殿の再建・造営を行うなど、同家から格別の崇敬・報賽を受けている。 元来、当社は三輪神社として大神神社の主祭神、大物主大神を奉斎してきたが、本地仏である十一面観音に圧倒され慈光院(俗称ジクイン)の俗称により世人からは
寺院
として知られ、三輪神社の社号を潜称して、式内社にしようとする神社も出現した。しかし、当社が延喜式内社三輪神社であることは、
承応
2年(
1653年
)6月26日書写の『加賀国式内等旧社記』に「三輪神社、式内一座石浦郷石浦村鎮座称石浦山王石浦郷七箇村惣社今属石川郡也」と記されていることからも明らかであるとされる。
旧藩時代、石浦山王・地主権現・慈光院などと呼称され、親しまれて来た当社も、
明治維新
の
神仏分離令
により、
明治
元年(
1868年
)12月、氏子地の石浦の郷名をとって「石浦神社」と改称し、同13年9月、下本多町から広坂通り112番地の現住所に移転した。石浦の名は、犀川・
浅野川
を支配していた、石浦豪族(他の豪族にだましうちに遭い、全国に移り住んだ。地名・苗字に名を残した。高山の石浦町のように
[
要出典
]
)金沢は旧石浦郷である。