2015.04.15更新
尾山神社
尾山神社
尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市に所在する神社。
主祭神は、加賀藩の藩祖前田利家で、創建は1873年。旧社格は、別格官幣社。境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社がある。神門は津田吉之助によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。例祭は利家の命日である4月27日。
慶長4年(1599年)前田利家が没すると前田利長は、その霊を祀ろうとしたが、公然と祀るには憚るところがあったので、越中国射水郡の式内社物部神社(現 富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに合祀した。この神社は、幕末になると藩の財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をする。旧藩臣が集まり前田土佐守家の前田直信が代表になり明治6年金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することとなった。元の卯辰八幡社は、明治11年、宇多須神社となっている。
1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、明治4年7月卯辰山天神社に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行なわれた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。
1873年(明治6年)11月には前田家当主前田斉泰の子の少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行なっている。次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなる。この神門は長谷川準也・大塚志良により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助によって建てられた[1]。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建される。
1874年(明治7年)3月に石川県中教院が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行なわれた。
1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日-5日には昇格慶賀祭が行なわれた。
尾山神社神門は、棟梁・津田吉之助の設計施工により1875年(明治8年)11月に完成した[5][1]。(地元ではオランダ人医師ホルトマンの設計であるとする説が流布しているが、ホルトマン着任以前に津田が最初の計画図を作成している[1]。)洋風建築を模した擬洋風建築の中でも中国風の混入した数少ない例の一つである[5]。1階を木骨煉瓦造石貼付の3連アーチとし[1]、2階・3階を木造漆喰塗りで階を追うごとに小さく作っている[5]。各階の肩が垂直ではなく竜宮城のようにカーブしており、中国南方の寺院の門の作りになっている[5]。屋根には避雷針が設置されている[1]。
用途は神社の正門であるが、最上階には色ガラスがはめられ灯台の役割を果たしていたと伝えられている[5][1]。減少した参拝客確保のためにこのような奇抜な神門が建てられた[5]。