2014.09.29更新
西芳寺(苔寺)
阿弥陀佛
所在地
京都府京都市西京区松尾神ヶ谷町56
位置
北緯34度59分31.06秒 東経135度40分59.93秒
山号 = 洪隠山
宗派
臨済宗
本尊
阿弥陀如来
創建年
(伝)
天平
年間(
729年
〜
749年
)
中興:
暦応
2年(
1339年
)
開基
(伝)
行基
中興:
夢窓疎石
別称
苔寺
文化財
湘南亭・夢窓国師画像(重要文化財)
庭園(特別名勝、史跡)
世界遺産
西芳寺(さいほうじ)は、
京都市
西京区
松尾にある
臨済宗
の寺院。一般には苔寺(こけでら)の通称で知られる。
山号
を洪隠山と称する。本尊は
阿弥陀如来
、開山は
行基
と伝え、中興開山は
夢窓疎石
である。「
古都京都の文化財
」として
世界遺産
に登録されている。
伝承によれば、西芳寺のある場所は
飛鳥時代
には第31代の
用明天皇
の皇子である
聖徳太子
の別荘があり、太子作の
阿弥陀如来
像が祀られていたという。
奈良時代
に至って、第45代の
聖武天皇
の勅願を得た
行基
が別荘から寺へと改めたと伝える。当初は
法相宗
寺院で「西方寺」と称し、
阿弥陀如来
を
本尊
、
観音菩薩
と
勢至菩薩
を
脇侍
とした。
畿内49院
の一つであった。
平安時代
初期の806年には第51代
平城天皇
皇子である
真如法親王
が
草庵
を結び修行をしたという。また
真言宗
開祖
である
空海
が入山し
黄金池
にて
放生会
を行ったという。
鎌倉時代
には
摂津守
の
中原師員
が再興し、西芳寺と穢土寺に分けられた。招かれた
法然
によって
浄土宗
に
改宗
され、本尊は
金泥
にされたという。 その後に
親鸞
は
愚禿堂
を建立し寺に滞在している。
鎌倉幕府
第5代
執権
であった
北条時頼
が
桜堂
(おうどう)を建立したが、
建武年間
に再び寺は荒廃している。
室町時代に、近くにある
松尾大社
の
宮司
藤原親秀
(ちかひで)は、
暦応
2年(
1339年
)、当時の高僧であり作庭の名手でもあった
夢窓疎石
を招請して
禅寺
として再興した。この時に西方寺と穢土寺は統一された。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯芳」という、禅宗の初祖
達磨
に関する句に由来する
[1]
。 1342年に
北朝
初代の
光厳天皇
が、
室町幕府
初代
将軍
の
足利尊氏
を従えて寺に
行幸
。 1382年に3代将軍の
足利義満
が西芳寺を訪れ、
道服
を着用し
指東庵
で
坐禅
に徹宵した。その後何度も訪れ、西芳寺を模して創建したのが
鹿苑寺
(金閣寺)である。
応仁の乱
(1467-1477)で東軍の
細川勝元
の陣が敷かれた。1469年に西軍の攻撃により焼失。 1485年には洪水により被災し、
本願寺
の
蓮如
により再興された。
室町幕府
第8代将軍の
足利義政
により指東庵が再建された。義政もその後何度か訪れ、西芳寺と鹿苑寺を模して創建したのが
慈照寺
(銀閣寺)である。
安土桃山時代
の1568年には
丹波国
の
柳本氏
による兵乱により焼失。
織田信長
が
天龍寺
の
策彦周良
に命じて再建させた。
江戸時代
には
寛永
年間と
元禄
年間の2度にわたって
洪水
にも見舞われ荒廃した。元は
枯山水
であった荒廃した庭園が
苔
でおおわれるのは江戸時代末期に入ってからのようである。すぐそばに川が流れる谷間、という地理的要因が大きい、とされる。 幕末の1862年には公卿・政治家の
岩倉具視
が一時湘南亭に隠棲した。
明治維新
の
神仏分離令
の
廃仏毀釈
により、境内地は狭められ荒廃した。 1878年に再興されている。
1928年より庭園が一般公開された。 1969年に
西来堂
再建。 1928年より誰でも参観できる観光寺院であったが、1977年7月からは一般の拝観を中止し、往復はがきによる事前申し込み制となっている。 単なる観光や見学ではなく読経と
写経
という宗教行事に参加することが条件となっている
[2]
。
アップル
の創業者である
スティーブ・ジョブズ
は、お忍びで家族とともに西芳寺をよく訪れていたという。
特別名勝
及び
史跡
。夢窓疎石の作庭で、上段の枯山水と、下段の池泉回遊式庭園の2つから成っていた。境内北方には上段の枯山水庭園の石組みが残り、この部分には夢窓疎石当時の面影が残っていると思われる。 今日、西芳寺庭園としてよく知られるのは苔の庭で、木立の中にある黄金池と呼ぶ池を中心とした回遊式庭園である。
山麓に位置する地形の庭園構成を池と、その上の山の斜面を利用した禅堂の庭とに分けまたこの禅堂より山に登る道があって、頂上に縮遠亭という休憩所があった。頂上からは桂川周辺を展望しようとし、池辺の2層の
舎利殿
(
瑠璃殿
)からは庭園を見下ろそうとする構想で、両者は同一の考えから出た、立体的な構想力を示したものであるとされる。
池には朝日ヶ島、夕日ヶ島、長島(霞島)と呼ぶ3つの島があり、小島には白砂が敷かれ松が植えられ、亭があり、池の3面の花木は2段に刈り込まれていた。池の周囲を埋め尽くす100種類以上といわれる苔は夢窓疎石の時代からあったものではなく、今のような苔庭になったのは江戸時代も末期のことといわれる。
池の周辺には瑠璃殿のほかに、釣寂庵、湘南亭、潭北亭、貯清寮、邀月橋、合同船があった。広さに比して建築的要素の多い庭といえるがこの邀月橋は亭をもった亭橋で、これを渡ると長鯨にのって大海に浮かんだようだといわれた。向上関より石段を上がった所に指東庵という禅堂があり、この山腹に巨石を組み、滝を象徴している。