2018.10.12更新
興福寺
所在地
奈良県奈良市登大路町48番地
位置
北緯34度40分59.97秒
東経135度50分0.98秒
山号
なし
宗派
法相宗
寺格
大本山
本尊
釈迦如来
創建年
天智天皇
8年(
669年
)
開基
藤原不比等
札所等
西国三十三所
9番(南円堂)
南都七大寺
2番
西国薬師四十九霊場
4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道
16番
文化財
五重塔・木造弥勒仏坐像・
乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂・木造薬王菩薩・
薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産
興福寺(こうふくじ)は、
奈良県
奈良市
登大路町(のぼりおおじちょう)にある、
南都六宗
の一つ、
法相宗
の大本山の寺院である。
南都七大寺
の一つに数えられる。
藤原氏
の祖・
藤原鎌足
とその子息・
藤原不比等
ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は
西国三十三所
第9番
札所
である。「
古都奈良の文化財
」の一部として
世界遺産
に登録されている。
藤原鎌足
夫人
の
鏡大王
が
夫
の病気平癒を願い、鎌足発願の
釈迦三尊像
を
本尊
として、
天智天皇
8年(
669年
)
山背国
山階(現
京都府
京都市
山科区
)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。
壬申の乱
のあった天武天皇元年(
672年
)、山階寺は
藤原京
に移り、地名の
高市郡
厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅
3年(
710年
)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた
[注 1]
。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した
養老
4年(
720年
)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
かつての興福寺には中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていた。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は、創建以来たびたび火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治期以降、興福寺の境内は
奈良公園
の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。
東金堂
東金堂 御詠歌
中金堂
千手観音
南円堂
南円堂 御詠歌
講堂
一言観音
一言観音 御詠歌
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北円堂
今興福力