2015.09.28更新

高山寺

        釈迦如来


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所在地 京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
位置 北緯35度3分36.39秒 東経135度40分42.85秒
山号 栂尾山
宗派 真言宗系単立
本尊 釈迦如来
創建年 1.伝・宝亀5年(774年
2.建永元年(1206年
開基 1.伝・光仁天皇(勅願)
2.明恵
文化財 石水院、鳥獣人物戯画ほか(国宝)
乾漆薬師如来坐像、宝篋印塔、絹本著色華厳海会諸聖衆曼荼羅図ほか(重要文化財)
世界遺産
高山寺(こうざんじ、こうさんじ)[1]は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。
高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗、明恵である。明恵房高弁(1173-1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。
明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。ただし、明恵はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。
明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
1966年仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。
建永元年の中興から20数年を経た寛喜2年(1230年)に作成された高山寺境内の絵図(重文、神護寺蔵)が現存しており、当時の様子が具体的にわかる点で貴重である。それによると、当時の高山寺には、大門、金堂、三重塔、阿弥陀堂、羅漢堂、鐘楼、経蔵、鎮守社などがあったことが知られるが、このうち、当時「経蔵」と呼ばれた建物が「石水院」として現存するほかは、ことごとく失われている。石水院から開山堂に至る道の両側に残る石垣は、かつての諸堂や塔頭を偲ばせている。
石水院(国宝)-鎌倉時代の建築。入母屋造、杮(こけら)葺き。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝える。外観は住宅風だが、本来は経蔵として造られた建物を改造したものと見られる。もともとは金堂の右後方に残る石段の上に建っていたが、明治22年(1889年)に現在地に移築したものである。
他に、仁和寺から移築した金堂、明恵の肖像彫刻(国の重要文化財)を安置する開山堂などがあり、いずれも江戸時代の建築である。遺香庵には小川治兵衛が1931年に作した茶庭(遺香庵庭園)があり、市の文化財として保存されている。また境内には茶園があり、寺では「日本最古の茶園」としている[2]
この茶園で栽培された茶は、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西が当時の中国の南宋へ留学した際にそこで種子を得て、帰国後に明恵に贈ったものと伝える。明恵はこれを初めは栂尾山の深瀬に植え、明恵が没した後も高山寺において栽培が続けられた。その後宇治その他の土地に広まったという。
この栂尾産の茶は鎌倉時代後期にはその味わいの良さが評判となって金沢貞顕ら東国の武士たちまで争って求めるほどの高評価を得た。このため室町時代初中期に盛んに行われた闘茶においては「我が朝の茶の窟宅は、栂尾をもて本となすなり」(『異制庭訓往来』)として栂尾産の茶を「本茶」と位置づけ、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだ。