2015.06.02更新

大光明寺陵

光明天皇
北朝第2代天皇
元号 建武
暦応
康永
貞和
先代 光厳天皇
次代 崇光天皇

誕生 元亨元年12月23日
1322年1月11日
崩御 天授6年/康暦2年6月24日
1380年7月26日))
陵所 大光明寺陵
父親 後伏見天皇
母親 西園寺寧子
皇居 京都御所
光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日1322年1月11日) - 天授6年6月24日1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日1336年9月20日)- 正平3年10月27日1348年11月18日))は、南北朝時代北朝第2代天皇である。を豊仁(ゆたひと)という。
後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、延元元年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。後醍醐天皇の代わりに8月15日に豊仁が三種の神器の無い状況で光厳上皇院宣により即位して光明天皇となり、北朝が成立する。三種の神器がない状況での即位は後鳥羽天皇後白河法皇の院宣により即位した先例に従ったものであり、この時代は三種の神器が皇位継承の絶対条件ではなかったのである。兄の光厳上皇による院政が行われた。
後醍醐天皇は恒良親王に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、足利尊氏と和解し京都に戻った。そこでもう一組の三種の神器を北朝に譲り渡した。この時点で光明天皇の「神器なしの即位」という点はクリアされた。が、後醍醐天皇は12月21日吉野に逃れて南朝を設立して南北朝が成立する。この時、後醍醐天皇は北朝に渡した三種の神器は偽物であると称した(この段階で三種の神器が3組も存在したことになるが、状況的にこの時の吉野潜行に三種の神器を帯同していく猶予はなかったと考えられ、実際に後の正平の一統後村上天皇は北朝の神器を奪還している)。また北陸においてもう一人の天皇として在位していた恒良親王は延元3年4月13日(1338年5月3日))に薨去(崩御?)したのでこの段階までは三人の天皇が並立していたともいえる。もし当時の人々にとって恒良親王の所持していた三種の神器が本物と考えられていたとしたら、壇ノ浦の戦いにおいて源義経が三種の神器の確保を厳命されていたように、何かしら言及された史料がありそうだがそのようなは記述は歴史書にみられず、恒良親王の神器は親王の捕縛に伴って北朝軍の司令官斯波高経の手を経由して光明天皇に渡ったのか、金ヶ崎城の落城とともにどこかで消失したのか等、行方が不詳である。
正平3年(1348年10月27日に光厳上皇の第1皇子崇光天皇に譲位した。上皇になった後は、正平7年(1352年)に足利氏の内紛である観応の擾乱に乗じて後村上天皇の軍が京都の足利義詮を追い都を奪回した際に、光厳上皇と共々南朝に捕らえられる。南朝による正平一統が行われると以後は南朝方により大和国賀名生(奈良県五條市)に軟禁される。
正平10年(1355年)に京へ戻り、以後は落髪して仏道に入ったとされる。天授6年(1380年6月24日、崩御した。
崇光天皇
北朝第3代天皇
元号 貞和
観応
先代 光明天皇
次代 後光厳天皇

誕生 建武元年4月22日1334年5月25日
崩御 応永5年1月13日1398年1月31日))
陵所 大光明寺陵
父親 光厳天皇
母親 藤原秀子
子女 伏見宮栄仁親王
興信法親王
瑞室
弘助法親王
皇居 京都御所
崇光天皇(すこうてんのう、建武元年4月22日1334年5月25日) - 応永5年1月13日1398年1月31日))は、南北朝時代北朝第3代天皇(在位:正平3年10月27日1348年11月18日) - 正平6年11月7日1351年11月26日))。を益仁(ますひと)といい、後に興仁(おきひと)と名乗った。
正平3年(1348年)に立太子。同年10月27日光明天皇から譲位され即位。光厳上皇が院政を敷いたが、足利家の内紛から観応の擾乱が起こり、正平6年(1351年)には尊氏が南朝に帰順することで正平一統が成立し、11月7日に皇太子直仁親王(花園天皇皇子)とともに廃立される。
正平7年(1352年)2月、南朝が京都へ侵攻して足利義詮を一時的に追い、光厳上皇・光明上皇、直仁親王と共に南朝の本拠である賀名生へ拉致され、幽閉された。北朝では天皇が南朝方に連れ去られてしまったため、代わりに光厳院の第三皇子で崇光天皇の弟にあたる弥仁親王を後光厳天皇として即位させた。
賀名生で2年、河内金剛寺で3年あまりの幽閉生活を送るが、南朝勢力が衰微して講和へ傾くようになると、正平12年(1357年)に光厳院、直仁親王と共に帰京する。崇光上皇は皇子の栄仁(よしひと)親王(伏見宮初代)の立太子を望み、建徳元年(1370年)8月に後光厳天皇が自らの皇子である緒仁親王(後円融天皇)の立太子を幕府に申し出ると皇位継承問題が起こるが、緒仁への皇位継承が決定する。
応永5年(1398年)1月13日 (旧暦)|1月13日、65歳で崩御。
没後30年目の正長元年(1428年)、曾孫である彦仁王(後花園天皇)が後小松院の猶子として即位している。
後伏見天皇
第93代天皇
元号 永仁
正安
先代 伏見天皇
次代 後二条天皇

誕生 弘安11年3月3日1288年4月5日
崩御 延元元年/建武3年(1336年5月17日
陵所 深草北陵
父親 伏見天皇
母親 藤原経子
女御 西園寺寧子
子女 珣子内親王
量仁親王(光厳天皇
豊仁親王(光明天皇
など他多数
後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日1288年4月5日)- 延元元年4月6日1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日1298年8月30日)- 正安3年1月21日1301年3月2日))。は胤仁(たねひと)。
伏見宮治仁王(ふしみのみやはるひとおう 建徳元年(1370年) - 応永24年2月12日1417年2月28日))は、南北朝時代室町時代日本皇族世襲親王家の一つ、伏見宮第2代当主。
父は栄仁親王、母は三条実治の娘、藤原治子(西御方)。伏見宮第3代当主の貞成親王は兄弟。崇光天皇は祖父にあたる。

応永15年(1408年)に元服。応永23年(1416年)11月に父栄仁親王が薨去すると宮家を相続するが、わずか数ヶ月で急逝した。このため治仁王の跡を継いだ貞成王に兄を毒殺した嫌疑がかけられたが、後小松上皇や4代将軍足利義持への弁明が功を奏して安堵を受けている。
なお、治仁王は貞成親王の兄であるというのが通説であるが、貞成親王の弟とする説もある。これは、治仁王逝去について記した『看聞日記』(貞成親王の日記)の記事に書かれた王の享年が「卅七」と記され、当時46歳であった貞成よりも年下になっていることによる。もっとも、これを「卅」と「卌」の書き誤りに過ぎず、また『看聞日記』には一貫して治仁王を「一宮」などと書かれていることから、栄仁親王の長男で貞成親王の兄というのが正しいとする反論もある。