2017.07.28更新
本能寺
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龍雲院 御言葉
妙法
所在地
京都府京都市中京区
寺町通
御池通
下ル
下本能寺前町
532
位置
北緯35度0分37.0秒
東経135度46分5.8秒
山号
なし
宗派
法華宗本門流
寺格
大本山
本尊
三宝尊
創建年
1415年(応永22年)
開山
日隆
開基
小袖屋宗句
札所等
洛中法華21ヶ寺
文化財
伝藤原行成筆書巻(国宝)ほか
本能寺(ほんのうじ)は、
京都府
京都市
中京区
下本能寺前町
にある、
法華宗本門流
の大本山。
本能寺の変
の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の
塔頭
がある。
本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、
応永
22年(
1415年
)、京都
油小路
高辻
と五条坊門の間に、
日隆
によって創建されたものである。
寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。
日隆は
妙本寺
4世・日霽に師事するが、
法華経
の解釈をめぐり
本迹勝劣
を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は
河内
三井(本厳寺)・尼崎(
本興寺
)へ移った。
永享
元年(
1429年
)、帰洛して大檀那・
小袖屋宗句
(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から
六角
大宮
の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。
その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には
洛中法華21ヶ寺
の一つとなり、
足利氏
の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた。
応仁の乱
後、京都復興に尽力した
町衆
は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。
天文
5年(1536年)
天文法華の乱
にて
延暦寺
・
僧兵
により、堂宇はことごとく焼失し、一時
堺
の
顕本寺
に避難した。
本能寺の「能」の字は「
䏻
」という俗字になっている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている。なお、この「䏻」は本能寺のために作字されたわけではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体である。