2017.01.24更新
金戒光明寺
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御詠歌
浄土真宗最初門
吉備観音
阿弥陀如来
中山文殊
五劫思惟
所在地
京都府京都市左京区黒谷町121
位置
北緯35度1分10.7秒
東経135度47分16.9秒
山号
紫雲山
宗派
浄土宗
本尊
阿弥陀如来
創建年
1175年
(
承安
5年)
開基
法然
別称
黒谷、白河禅房
札所等
法然上人二十五霊跡
第二十四番
洛陽三十三所観音霊場
第六番
文化財
三重塔(文殊塔)、木造千手観音立像、
山越阿弥陀図・地獄極楽図(重要文化財)
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、
京都市
左京区
黒谷町にある
浄土宗
の
寺院
。山号は紫雲山。本尊は
阿弥陀如来
。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。
知恩院
とならぶ格式を誇る
浄土宗
の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に
知恩院
、
知恩寺
、
清浄華院
)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。
承安
5年(
1175年
)春、
法然
が
比叡山
の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然はここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、
叡空
入滅の時、黒谷の本房と白川の本房を法然に与えた。そのため比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。後に法然は
信空
に黒谷の本房と白川の本房を与え、信空はこの地に住んだ。その後岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。なお比叡山では黒谷を現在も
黒谷
と呼ぶ。第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。第8世運空は
後光厳天皇
に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、
後小松天皇
から「浄土真宗
[1]
最初門」の
勅
額を賜った。
江戸時代
初期に
城郭
構造に改修された。文久2年(
1862年
)
京都守護職
の
本陣
となった。第二次大戦後「黒谷浄土宗」として一派独立するが現在は
浄土宗
に合流し七大本山の一翼を担う。御詠歌「池の水ひとの心に似たりけり 濁り澄むこと定めなければ」
金戒光明寺は徳川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められていた。
会津藩
主
松平容保
が
幕末
の文久2年閏8月1日(
1862年
9月24日
)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして
新選組
をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。慶応3年12月9日(
1868年
1月3日
)、この年の10月に行われた
大政奉還
後の
王政復古の大号令
によって
薩摩藩
・
長州藩
が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。ここ黒谷の地で、
鳥羽・伏見の戦い
で戦死した会津藩士の
菩提
を弔っている。 なお、このころ
中間
として出入りしていた
侠客
が
会津小鉄
こと上坂仙吉である。