2015.09.11更新
宗像神社
宗像神社
トップページへ戻る
所在地
京都市上京区京都御苑内9
位置
北緯35度01分08.4秒 東経135度45分40.6秒
主祭神
多紀理比売命
多岐都比売命
市寸島比売命
社格
等
国史見在社・旧府社
創建
伝延暦14年(795年)
本殿の
様式
一間社流造檜皮葺
例祭
9月15日
宗像神社(むなかたじんじゃ)は、
京都府
京都市
上京区
、
京都御苑
内にある
神社
である。
国史見在社
で、
旧社格
は
府社
。
宗像三女神
(
多紀理比売命
、
多岐都比売命
、
市寸島比売命
を主祭神に、
倉稲魂神
と天岩戸開神の2柱を配祀する。
主祭神は『
日本三代実録
』に、
筑前国
の宗像神社(現
宗像大社
)と鎮座地を異にするが「同神」であると記されたり
[1]
、「同神別社」であると記されている
[2]
。配祀神の天岩戸開神も国史見在社(天石戸開神)を合祀したもので、『花山院家記』(『
山城名勝志
』所引)には合祀前の状況を「天石戸開神。大石也。霊有り」と伝えており、また倉稲魂神は
藤原時平
によって合祀されたと伝える。
現在、御苑内の西南(
裏鬼門
)にあたる位置に鎮座するため、
方除け
の信仰を集めている。
社伝によれば、
延暦
14年(
795年
)、
藤原冬嗣
が
桓武天皇
の勅命を蒙り、
皇居
鎮護の神として筑前宗像神を
勧請
し、自邸である
東京第
(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝えるが
[3]
、当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『
土右記
』が挙げられる。東京第は冬嗣の没後、東の
花山院
と西の小一条第に分けられたが、同書には当時の小一条第第主
師成
の語った以下の話を載せている
[4]
。
小一条第は
藤原内麻呂
が息子の冬嗣に買い与えた邸宅であるが、その理由は、冬嗣がまだ
内舎人
であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで小一条第を買ってもらい、そこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためである。
また、邸内の東北隅には天石戸開神も祀られていたようであるが、その由緒は不明である。
東京第は
嘉祥
3年(
850年
)に
清和天皇
(生母は冬嗣の孫の
明子
)が誕生した場所で
[5]
、その縁から同天皇の
産神
・
産土神
と崇められたようで、宗像3神には即位の翌年である
貞観
元年(
859年
)に正二位が授けられており(その後従一位に昇進)、同7年(
865年
)には同じく邸内社であった天石戸開神にも従三位が授けられ
[6]
、同年4月17日には特に楯・桙・鞍を奉納するほどであったが
[7]
、『
延喜式神名帳
』には登載されずに終わった。その後、
藤原時平
の代に倉稲魂神を合祀し、更に
天承
元年(
1131年
)に
藤原師実
から子
家忠
が花山院(小一条第も
花山天皇
の皇居とされて以来「花山院」と呼ばれるようになっていた)を伝領して
花山院家
を開くと、天石戸開神をも合祀して同家の守護神とするようになり、
建治
元年(
1275年
)になって初めて
官社
に列したという。
応仁の大乱
の兵災に罹り焼亡したが、その後再建され、周辺一帯の
公家町
化の過程で、花山院家が転宅した後も鎮座地を変えず、
明治天皇
の
東京遷都
によって御苑内鎮座となり、
明治
8年(
1875年
)に府社に列した。第二次大戦後は
神社本庁
に属している。