2016.03.28更新

来迎院


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        含翆之庭

         布袋尊

         廣福殿

来迎院(らいごういん)は京都市東山区にある真言宗泉涌寺派に属する仏教寺院。山号は明応山。本尊は阿弥陀如来
泉涌寺塔頭。禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺(みてら)別当来迎院とも称する(「御寺」とは泉涌寺のこと)。
寺伝によれば、大同元年(806年)に空海(弘法大師)が(中国)で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。それから約400年後の健保6年(1218年)、泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となったが、1418年の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃した[1][2][3]
その後、天正2年(1574年)、中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たした[2]
1701年(元禄14年)3月14日、江戸城松之大廊下において、赤穂の大名であった浅野長矩(浅野内匠頭)が吉良義央(吉良上野介)に斬り付ける事件が発生した[4]。浅野長矩は切腹、赤穂浅野家はお家断絶となった。浅野の家臣である大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の泉涌寺長老、兼、来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしたと伝えられる[3]
大石良雄は来迎院に書院を興し、また、境内に弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」が湧き出ることから[5]茶室「含翆軒」(がんすいけん)[6]、「含翆庭」(がんすいてい,池泉回遊式庭園)を設け、ここで茶会を催しながら同士である元赤穂藩の家臣達と討ち入りの密議をおこなったとされる[3]。また大石は、現在も来迎院本堂に安置される勝軍地蔵像(しょうぐんじぞうぞう)を念持仏として祈願したと伝えられる[2][3][7]
明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復され、現在に至る[3]。また、大正時代になり、当時の玄暁住職によって、大石良雄の遺徳を偲び毎月14日に含翆軒にて茶会が催されるようになった。また、赤穂浪士による討ち入り(赤穂事件)が行われた12月14日には、「大石忌」として茶会が営まれた[5]。この茶会は現在も「含翆会」(がんすいかい)の名で継続されている[5]