2017.09.22更新
神泉苑
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静御前
惠方社
弘法大師
平安京聖蹟
嵯峨天皇
桓武天皇
不動明王
聖観音菩薩
善女龍王殿
所在地
京都府京都市中京区
御池通神泉苑町
東入ル門前町166
位置
北緯35度0分40.97秒
東経135度44分54.14秒
宗派
東寺真言宗
本尊
聖観音
創建年
天長
元年(
824年
)
開基
空海
別称
ひでんさん
札所等
通称寺の会
文化財
木造不動明王坐像
(重要文化財)
史跡
神泉苑(しんせんえん)は、
京都市
中京区
にある
東寺真言宗
の寺院。本尊は
聖観音
・
不動明王
・
弘法大師
。
二条城
の南に位置し、元は
平安京
大内裏
に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。境内に「恵方社」として「
大歳神
:歳徳神(としとくじん)」を祀るが毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる(日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられる)。
延暦
13年(
794年
)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。
史料に初めてその名が見られるのは『
日本紀略
』の記事であり、延暦19年
7月19日
(
800年
8月12日
)、
桓武天皇
が行幸したという内容である。延暦21年(
802年
)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。また、『
日本後紀
』には、
嵯峨天皇
が
弘仁
3年(
812年
)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとあり、これが記録に残る
花見
の初出と考えられている。
季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(
善女竜王
)が住むといわれ、
天長
元年(
824年
)に
西寺
の
守敏
と
東寺
の
空海
が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝った。また空海以降も密教僧による雨乞いが何度も行われている。
貞観
5年(
863年
)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。貞観11年(
869年
)には神泉苑の南端(現在の
八坂神社
三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の
祇園祭
の元になったと言われている。尚、現在でも京都を中心に祭典時に鉾を立てる神社が幾つか存在する。この鉾は
剣鉾
(けんぼこ)と言う。
中世以降は荒廃し、
慶長
8年(
1603年
)、
徳川家康
が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。
筑紫の僧覚雅(快雅)が朝廷の許しを得て慶長12年(1607年)より元和年間(1615〜1624年)に掛けて復興を図った。弘法大師との縁によりこの時より東寺真言宗の寺院(寺領四十石)となった。
都名所図会
で紹介される神泉苑は覚雅(快雅)による復興後である。神泉苑の境内には
弁財天
も祀られているが貞享2年(1685年)の京都案内誌「京羽二重」(水雲堂狐松子著)の中では弁財天廿九ヶ所の霊場のひとつとなっている。
天明
8年(
1783年
)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。
昭和
10年(
1935年
)に国から文化財として「
史跡
」に指定される。
平成
26年(
2014年
)には善女竜王勧請1200年記念事業として法成池の水を55年振りに抜いて善女竜王社本殿等の解体・修復を行っている。
伝承では
源義経
と
静御前
が出会った場と言われ、また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「
御池通
」の名前の由来であるとの説もある(異説あり)。
二条城
の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑がある。これは
京都市営地下鉄東西線
に関わる工事の際に判明したものである。
京都新聞
は戦時中、1面コラムの名前を「神泉」としていた。おそらく神泉苑に由来すると思われる。