2015.09.17更新

相国寺

        無畏堂


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所在地 京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
位置 北緯35度1分59秒 東経135度45分44.45秒
山号 萬年山(まんねんざん)
宗派 臨済宗相国寺派
寺格 大本山、京都五山2位
本尊 釈迦如来
創建年 永徳2年(1382年
開基 足利義満夢窓疎石(開山)
正式名 萬年山 相国承天禅寺
札所等 神仏霊場巡拝の道 第99番
文化財 無学祖元墨蹟(国宝
法堂・紙本墨画猿猴竹林図ほか(重要文化財)

相国寺(しょうこくじ)は、日本禅寺京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。山号を萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺、まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)という。
本尊釈迦如来開基(創立者)は足利義満開山(初代住職)は夢窓疎石である。
足利将軍家伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文雪舟は相国寺の出身である。また、京都観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。
義満は、禅の師であった春屋妙葩開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。
相国寺は京都最大の禅宗寺院の1つとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に全焼。義満による七重大塔も数年で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。大正3年(1914年)の日立鉱山の煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼している。
応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。