2016.06.02更新

若宮八幡宮社


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        若宮八幡宮

所在地  京都府京都市東山区五条橋東五丁目480番地
位置   北緯34度59分43.4秒 東経135度46分29.6秒
主祭神  応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
社格等  旧郷社
創建   天喜元年(1053年)
本殿の様式 三間社流造銅板葺
別名   六条左女牛八幡宮・陶器神社
例祭    8月8日
若宮八幡宮社(わかみやはちまんぐうしゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。陶器神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。
応神天皇・仲哀天皇・神功皇后(八幡三神)を主祭神とし、左相殿に仲恭天皇、右相殿に椎根津彦大神(陶祖神)を配祀する。
天喜元年(1053年)、仏説による末法末世の世の1年目にあたることから[要出典]、後冷泉天皇の勅願により源頼義が左女牛(さめがい)西洞院にあった自邸内の坤の隅に造営された石清水八幡宮の若宮(新宮)であったために左女牛八幡宮と称され、また左女牛通の北を六条大路が走り、頼義邸はその間に位置したために六条左女牛若宮や六条八幡宮とも称され、毎年8月に放生会を行う例とされたが、その後保延6年(1140年)正月に石清水八幡宮が火災によって社殿焼失に遭った際には左女牛の若宮に遷座したとの夢告ありと京中の道俗男女の参詣が盛んとなったという[1]。爾来源氏の氏神として同氏からの崇敬を受け、源頼朝は大江広元の弟の季厳阿闍梨を別当職に任じ、文治元年(1186年)12月には土佐国吾川郡の地を寄進[2]、建久元年(1190年)と同6年に上洛の際には石清水八幡宮と唯2社のみの社参を行い[3]、以後鎌倉時代を通して将軍家代々の社参が恒例とされたり[要出典]、武家尊崇の大社として地方的にも篤い崇敬を受けた。 室町時代になっても足利尊氏は7種の神宝や社領知行安堵状、義政は51ヶ所の地所を奉納したり[要出典]、足利将軍家から三条坊門の御所八幡宮社と並んで代々の社参が行われるなど石清水八幡宮に次ぐ幕府の宗祀と崇められ、その結構は京中では祇園、北野に次ぐ規模であったが[1]、応仁の乱の兵火に罹って社殿を焼失するなど荒廃し、足利義輝及び義昭の発起により諸国の武家に寄付を募って再建されたものの昔日の規模には至らなかった。 ほか織田信長、大内義隆、毛利三家、細川、三好、朝倉氏などより神地、神馬、太刀等を奉納される。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉による京都改造により御旅所のあった東山に移されて旧地は本願寺の寺域とされ、同16年には方広寺の北に、秀吉薨後の慶長2年(1597年)6月には現社地に三遷された。元和元年(1615年)、徳川家康より神領73石8斗余を寄進され、同3年に後水尾天皇の勅命で社殿造営、承応3年(1654年)にも後光明天皇が父後水尾上皇の考えにより社殿を造営している(現本殿)。 明治10年(1877年)、宮内省によって伏見街道十六町(現東山区本町十六丁目)の円丘上にあった塚本社から仲恭天皇の神霊が奉遷され[4]、同24年に陶祖神として椎根津彦大神を合祀。 戦後は神社本教に参加し、その本部が置かれている。
本殿は三間社流造銅板葺。身舎正面の庇部分を前室とし、更にその前に向拝(こうはい)を付けた前室付流造という京都では珍しい形式を持ち、屋根は当初檜皮葺であった[5]。昭和59年(1984年)6月1日に京都市の文化財(建造物)に指定された。