2015.07.06更新
安井金比羅宮
安井金比羅宮
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所在地
京都府
京都市
東山区
東大路松原上ル下弁天町70
位置
北緯34度59分59.7秒 東経135度46分32.8秒
主祭神
崇徳天皇
・
大物主神
・
源頼政
社格
等
郷社
創建
元禄
8年(1695年)
例祭
10月1日
-
10月10日
主な神事
秋季金比羅大祭(例祭)
金比羅宮(やすいこんぴらぐう)は
京都府
京都市
東山区
にある
神社
である。「安井のこんぴらさん」で知られる。
藤
・
山吹
の名勝の地であり、
天智天皇
の治世に
藤原鎌足
が当地に藤原家一門の繁栄を祈願した
仏堂
を建立し、藤を植樹して藤寺と号した
[1]
。崇徳天皇は藤寺の藤を愛でるとともに、寵愛した
阿波内侍
を住まわせて、たびたび御幸した
[1]
。
崇徳上皇
は
讃岐国
に流刑になった後、阿波内侍に自筆の尊影を下賜した。崇徳上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は
出家
して
尼
になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納して、日夜ひたすら勤行した。
治承
元年(1177年)、崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、崇徳上皇の霊が現れたことから、
後白河法皇
の詔によって
建治
年間(1275年 – 1277年)に光明院観勝寺が建立されたのが当社の起こりとされる
[2]
。
光明院観勝寺は
応仁の乱
の戦渦で荒廃したが、
明応
6年(1497年)
住持
の幸盛が御影堂(現在の崇徳天皇御廟
[3]
)を再興し、崇徳上皇を慰霊した。
元禄
8年(1695年)に太秦安井(現在の京都市右京区)の蓮華光院(安井門跡)が移建されると、光明院観勝寺はその管下になった。後代になって、光明院観勝寺は廃絶した。なお、近年において崇徳上皇を慰霊した光明院と観勝寺、通説では観勝寺の別名とされていた東岩蔵寺は元は全て別の寺院で、光明院・観勝寺が東岩蔵寺の末寺であったものが応仁の乱による東岩蔵寺の廃絶などによって最終的には光明院を経て蓮華光院に統合され、その過程で東岩蔵寺・光明院・観勝寺の寺伝が混同されるようになったとする指摘が出されている
[4]
。
都名所図会
巻之三「安井光明院観勝寺」によれば、真言宗の僧侶の大円法師が参籠した際に崇徳上皇の尊霊が現れて往時の趣を示したので、後白河法皇に奏達したところ、詔が下って崇徳上皇の尊霊の鎮魂のために堂塔を建立して仏堂に
准胝観音
を本尊として祀り、奥の社には崇徳天皇を祀るとともに、
金毘羅権現
・源三位頼政を合祀し、安井の金毘羅と称したとあり、「崇徳帝・金毘羅は一体にして和光の塵は同じうして擁護の明眸を... 利生霊験いちじるし」と記されている
[5]
。
源頼政が合祀されたのは、蓮華光院(安井門跡)の初代が道尊僧正が高倉宮
以仁王
の遺児であったためと考えられている。
明治維新
の
神仏分離
(神仏判然令)により、蓮華光院(安井門跡)は廃され、安井神社に改組された。併せて祭神の金毘羅権現は、大物主神に改められた。
明治
6年(1873年)村社に列し、更には明治15年(1882年)郷社に昇格した。
第二次世界大戦
後、「安井金比羅宮」の名称となり現在に至る
[2]
。