2016.02.15更新
室生寺
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十一面観世音
御詠歌
悉地院
所在地
奈良県宇陀市室生78
位置
北緯34度32分16.4秒 東経136度2分26.2秒
山号
宀一山(べんいちさん)
宗派
真言宗
室生寺派
寺格
大本山
本尊
釈迦如来
(国宝)
創建年
宝亀
年間(
770年
-
781年
)
開基
賢憬
(賢璟)
別称
女人高野
札所等
仏塔古寺十八尊
第18番
西国薬師四十九霊場
第八番
役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道
第36番
文化財
金堂、五重塔、木造釈迦如来立像ほか(国宝)
弥勒堂、木造文殊菩薩立像ほか(重要文化財)
室生寺(むろうじ)は、
奈良県
宇陀市
にある
真言宗
室生寺派大本山の寺院。
山号
を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は
賢憬
(賢璟)、
本尊
は
釈迦如来
である。
奈良盆地
の東方、三重県境に近い室生の地にある
山岳寺院
である。
宇陀川
の支流室生川の北岸にある
室生山
の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内は
シャクナゲ
の名所としても知られる。
女人禁制
だった
高野山
に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。
仏塔古寺十八尊
第十八番。
天武天皇
9年(680年)、
役小角
(役行者)の草創、
空海
の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、
奈良時代
最末期の草創と思われる。室生寺の東方約1キロのところには
竜神
を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、室生寺の草創にも竜神が関係している。
『
続日本紀
』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の
宝亀
年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの
桓武天皇
)の病気平癒のため、室生の地において
延寿の法
を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、
興福寺
の僧・賢憬(賢璟)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。賢璟は
延暦
12年(793年)没しており、造営は同じ興福寺の僧である弟子の
修円
に引き継がれた。修円は
承和
2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような
伽藍
が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。
草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、時代は下って
江戸時代
の
元禄
11年(1698年)、興福寺の
法相宗
から独立して、真言宗寺院となった。女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、これは室生寺の代名詞にもなっている。近世には5代将軍
徳川綱吉
の母
桂昌院
の寄進で堂塔が修理されている。
1964年
には
真言宗豊山派
から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。
室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている、典型的な山岳寺院である。室生川に架かる朱塗りの太鼓橋を渡ると、正面が本坊で、右方にしばらく行くと仁王門(近代の再建)がある。仁王門を過ぎ、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、正面に金堂(
平安時代
、
国宝
)、左に弥勒堂(
鎌倉時代
、
重文
)がある。さらに石段を上ると
如意輪観音
を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)があり、その左後方の石段上に五重塔(平安時代初期、国宝)がある。五重塔脇からさらに400段近い石段を上ると、空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、
室町時代
前期、重文)に達する。
金堂の屋根は
寄棟造
、
柿葺き
。桁行(正面)5間、梁間(側面)5間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)で、桁行5間、梁間4間の正堂(しょうどう、内陣)の手前に、梁間1間の礼堂(らいどう)を孫庇として付した形になる。孫庇部分は片流れ屋根となり、両端を縋破風(すがるはふ)として収めている。堂は段差のある地盤に建っており、建物前方の礼堂部分は斜面に張り出して、床下の長い束(つか)で支えている。このような建て方を「
懸造
(かけづくり)」と言い、山岳寺院によく見られる。正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。礼堂部分は
寛文
12年(
1672年
)に全面的に建て替えられている。堂内須弥壇上には向かって左から
十一面観音
立像(国宝)、
文殊菩薩
立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、
薬師如来
立像(重文)、
地蔵菩薩
立像(重文)の5体が横一列に並び、これらの像の手前には
十二神将
立像(重文)が立つ。
[1]
須弥壇上には前述のように5体の仏像を横一列に安置するが、須弥壇部分の柱間が3間であることから、当初の安置仏像は3体であったと推定される。造立年代は釈迦如来像と十一面観音像が9世紀、他の3体が10世紀頃とみられる。中尊像は現在は釈迦如来と呼ばれているが、光背に七仏薬師像を表すことなどから、本来は薬師如来像として造立されたものである。5体の仏像はいずれも板光背(平らな板に彩色で文様を表した光背)を負うが、向かって右端の地蔵菩薩像の光背は、像本体に比べて不釣り合いに大きく、本来この地蔵像に付属していたものではない。宇陀市室生三本松の中村区所有(安産寺)の地蔵菩薩立像(重文)は、室生寺の釈迦如来立像と作風が近い。また、前述の室生寺金堂の右端の像の板光背は、中村区地蔵菩薩像の像高に合致するものである。以上のことから、中村区地蔵菩薩像は本来室生寺金堂に安置されていたものであり、金堂須弥壇右端の像の板光背は、本来、中村区像に付属していたものであると見るのが定説となっている。
[2]
弥勒堂は入母屋造、杮葺き。桁行3間、梁間3間。鎌倉時代前期の建築だが、江戸時代に大幅に改造されている。堂内中央の厨子に本尊
弥勒菩薩
立像(重文)を安置し、向かって右に釈迦如来坐像(国宝)を安置する。
本堂(灌頂堂)は
入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の
密教
化が進んでいた鎌倉時代後期、
延慶
元年(
1308年
)の建立。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、
灌頂
という密教儀式を行うための堂である。内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には
両界曼荼羅
(
金剛界曼荼羅
、
胎蔵界曼荼羅
)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。正面は5間とも和様の蔀戸(しとみど)とするが、両側面の前方2間は桟唐戸とする。桟唐戸の使用や、頭貫の木鼻などに大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。
[3]
五重塔は
800年
頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、
法隆寺
塔に次ぎわが国で2番目に古く、
国宝
・
重要文化財
指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。
通常の
五重塔
は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。しかし、斗(ます)、肘木などの組物の大きさは同じなので、5重目では組物と組物の間隔が非常に狭くなっている。側柱(外面の柱)の径は1重目が28センチ、2重目以上が23センチである。日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙(すいえん)」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。寺伝では、創建にかかわった僧侶
修円
がこの宝瓶に室生の
竜神
を封じ込めたとされる。
心柱には江戸時代の明和5年(1768年)の修理銘を記した銅板が打ち付けられており、明治33年(1900年)から翌年にかけても半解体修理が行われた。このほか、部材には鎌倉時代末期頃のものが含まれることから、その頃にも一度修理を受けていることがわかる。部材には当初材のほか、鎌倉時代、江戸時代(明和)、明治時代のものが含まれ、各重の側柱には明和と明治の修理で取り換えられたり、当初位置から移動しているものが多い。屋根は建立当初は板葺きで、明和の修理で
檜皮葺き
に変更したものとみられる。
五重塔は、
1998年
9月22日
、
台風7号
の強風でそばの杉(高さ約50メートル)が倒れた際に屋根を直撃、西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし、
心柱
を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を
1999年
から
2000年
にかけ行った。
[4]
修理に際し
奈良文化財研究所
により、当初材を
年輪年代測定法
で調査したところ、
794年
頃に伐採されたものであることが判明した。このことからも塔の建立年代を800年頃とする従来の定説が裏付けられた。
[5]
如意宝珠
如意輪観世音
弘法大師