

長崎の孔子廟は、清国光緒19年(1893)11月長崎華僑有志により、学問道徳の神として孔子を祭った、日本で唯一の中国廟宇(びょうう)です。 孔子は、紀元前551年、現在の中国山東省にあった小都市国家「魯国(ろこく)」の武家の二男で、名は丘、字は仲尼、二歳で父を失い、そのため貧窮(ひんきゅう)のなかに育った。 幼少から向学心が強く、あらゆる手づるをたどって、周の伝統文化を学びました。
孔子は吾十有五而志乎學(われじゅうゆうごにして がくにこころざす)。その後、社会教育のため「詩経」「礼経」「書経」「春秋」「易経」「楽経」を編纂、「大学」「中庸」、それに孔子の口伝えとして有名な「論語」が 師の教えとして孔子の弟子によって記されています。
孔子は、紀元前474年、74歳で没しましたが、没後2500年経った今も、中国はもとより、東南アジアにおけるもっとも重要な思想となった儒経の開祖です。 そして、孔子は社会教育者であり学校教育者でもあります。
長崎は、西暦1571年自由港として開港し、中国および南蛮諸国との交易により繁栄し、西暦1639年徳川瀑布の鎖国に際し、唯一の開港地と認められ、西暦1859年5月28日開国までの 220年間、中国・欧州の文化・文物等の受け入れ口として、日本近世近代文化に重要かつ巨大な役割を果たした港町でした。
唐人船は、季節風に乗り秋口入港、交易をすませ、年を越し、春帰国という帆船時代特有の形で数千の中国人が約半年間居住、このため長崎は中国の街と言っても過言でなかったようです。 この間、明清交替期には穏元(いんげん)はじめ多数の碩学(せきがく)和尚が来崎し、「興福寺」「崇福寺」を建立、日本文化に計り知れない影響をあたえました。
孔子廟は西暦1945年8月9日の原爆により崩壊寸前まで荒廃しましたが、再び華僑の手により修理が重ねられ、1967年9月28日現在のような華南文廟式に修復されたものです。 そして1983年、中国政府並びに山東省曲阜県孔子廟の協力を仰ぎ、重ねて修理し現在に至っています。
また、本殿(大成殿)奥に中国政府の協力を得て、日中友好の場として中国歴代博物館を設置、常時 中国の一級物(国宝)を二階・三階展示場に展示しています。
いかにも中国的な色鮮やかな建物と孔子像や72賢人像など石製の像などがあり、これらの像はすべて中国から取り寄せたものだそうです。














