2014.12.02更新

大光院

         明王殿

所在地 愛知県名古屋市中区大須2丁目7-25
位置 北緯35度09分39.40秒 東経136度54分04.20秒
山号 興國山
宗旨 曹洞宗
本尊 木像釈迦牟尼仏坐像
創建年 慶長8年(1603年)
開山 明嶺理察
開基 松平忠吉
正式名 興國山大光院
別称 赤門明王殿・みょうおんさん[1]
札所等 名古屋四国5番
大光院(だいこういん)は愛知県名古屋市中区大須にある曹洞宗寺院山号は興國山(こうこくさん)。
慶長8年(1603年)、尾張国春日井郡清須に清善寺(せいぜんじ)として創建された[2]開山の明嶺理察は武蔵国埼玉郡忍(現・埼玉県行田市)の清善寺6世で、松平忠吉清須城に移ると、城下で廃寺となっていた雲門寺を再興するにあたって明嶺を招き、寺号を清善寺として[3]、当寺も忍清善寺の末寺となった。
忠吉が慶長12年(1607年)に没すると明嶺が授けた忠吉の法名・大光院を取って寺号を改め[3]、慶長15年(1610年)の清須越愛知郡日置村(現・大須2丁目)に移転[3][4]、 山号を日置山としたが元禄年間(1688年 - 1704年)には興國山へと戻している[5]享保19年(1734年)6月には火災で山門を含めて焼失[5][6]、諸堂が再建されたのは安永8年(1779年)であった[5]文化5年(1808年)には烏瑟沙摩明王の別殿として明王殿が建立され[4]、腰部の疾病に霊験があるとして女性の参拝が多く[5]、その様子は「尾張名所図会」などにも描かれた。
安政年間(1854年 - 1860年)になると大光院の西側、大須観音や清安寺の墓地に囲まれた通称「北野新地」に旅役者のための宿が作られたが、やがてここに遊女が置かれるようになって事実上の遊廓となった[7]。遊女の外出先として大光院への参拝を許していたことから、縁日には遊女も多く訪れて賑わった[4]
1872年明治5年)、諸堂を再建[5]大正時代には本堂や明王堂、山門、庫裡のほか、開山堂・位牌堂・僧堂・鎮守堂・鐘楼などがあったが[5]、昭和初期の区画整理によって境内地に道路が作られることになり、明王殿などは従来より北に移され、1934年(昭和9年)に開通したこの通りは[8]、大光院の朱塗りの山門から「赤門通り」と命名された[2]。また、僧堂については1939年昭和14年)に日泰寺へと譲渡されている[9]
大須は1945年(昭和20年)の名古屋大空襲を受け、大光院も焼失。戦後の戦災復興事業に伴い墓地は平和公園に移設され、焼失した本堂は1957年(昭和32年)、山門は1966年(昭和41年)に再建[4]。本堂・明王殿は後に鉄筋造で建て直され、合わせて境内が石畳となった[4]。境内では毎月28日に縁日が行なわれるほか[2]、毎年10月の大須大道町人祭には多くの大道芸人がその芸を見せる。