2015.02.16更新
栄国寺
所在地
愛知県名古屋市中区橘2丁目21-38
位置
北緯35度9分13.187秒 東経136度54分4.698秒
山号
清涼山(せいりょうざん)
宗派
浄土宗
本尊
阿弥陀如来
創建年
寛文
4年(
1665年
)
開基
西光院第九世任空可信
正式名
清涼山栄国寺
栄国寺(えいこくじ)は、
愛知県
名古屋市
中区
橘にある
浄土宗
の
寺院
。
山号
は「清涼山」(せいりょうざん)。栄國寺とも表記される。
寛文
4年(
1665年
)、
徳川光友
が、刑場を千本松原から土器野(現・
清須市
)に移し、千本松原刑場跡地に、西光院第九世任空可信を開祖として開基する。
尾張藩の初代藩主
徳川義直
、二代目の徳川光友は、徳川の
キリシタン
弾圧の時代においても、当初はキリシタンに寛容であったとされている
[1]
。
寛永
8年(
1631年
)より、藩内でキリシタン伝道に携わった者の処刑を始める。寛永21年(
1644年
)から、正保2年(
1645年
)にかけて名古屋城中からもキリシタンが捕らえられ処刑された。この地で処刑された彼らキリシタンを弔うため町岡新兵衛は、
慶安
2年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。
寛文
元年(
1661年
)春以来数多くのキリシタンが藩内の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文四年十二月十九日(
1665年
2月3日)千本松原刑場で処刑し、他のキリシタンの助命をはかった。しかし、幕府の命令により、結局捕縛させた二千人余のキリシタン全員を寛文7年(1668年)に、別の地にて処刑することとなった。このとき、尾張のキリシタンは、ほぼ絶滅したとされる
[2]
。
寛文4年(
1665年
)、
徳川光友
が、刑場を千本松原から土器野に移し、千本松原刑場跡地に、その跡に菩提のため「清涼庵」を開基する。初代の開祖は、西光院第九世任空可信である。本尊の阿弥陀如来像は、尾張北部の丹羽郡塔ノ地村・薬師寺のから千人塚別名切支丹塚の菩提のため、徳川光友が移させた仏像で、「火伏不思議の弥陀」と称せられ、鎌倉時代の仏工・春日の作と伝えられる。
貞享
2年(
1685年
)、名称が「栄國寺」と改められる。
栄国寺は、尾張徳川家の庇護の下、存続し、明治大正昭和と伝統が受け継がれる。太平洋戦争中
1945年
の名古屋爆撃の際、栄国寺周辺は、焼夷弾の被害がなかったという奇跡が伝えられている。
1969年
、切支丹遺蹟資料館が境内に建てられる。仏壇屋の佐藤_一が収集し寄贈したマリア観音や
踏絵
や切支丹遺物が展示されている。
1986年
より、
カトリック名古屋教区
の主催で境内で「名古屋殉教者祭」として
ミサ
が行われている。
2010年
は、2月6日に行われた。
1996年
11月23日には、カトリック名古屋教区による顕彰碑が建てられる。