2014.12.02更新
長福寺(七寺)
大聖不動尊
聖観音・大勢至両菩薩
長福寺
所在地
愛知県名古屋市中区大須2丁目28-5
位置
北緯35度9分29.47秒
東経136度54分0.26秒
山号
稲園山
宗派
真言宗智山派
本尊
聖観世音菩薩
創建年
(伝)天平七年(735年)
開基
(伝)行基
正式名
稲園山 正覚院 長福寺
別称
七寺
札所等
東海三十六不動尊
第九番霊場、
名古屋二十一大師
第二番霊場
文化財
観音菩薩・勢至菩薩像、七寺一切経
長福寺(ちょうふくじ)は、
愛知県
名古屋市
中区
にある
真言宗智山派
の準別格本山
寺院
。山号は稲園山(とうえんざん)。七寺(ななつでら)とも称される。
寺伝によれば、
天平
7年(
735年
)、
尾張国
中島郡
萱津(現在の愛知県
あま市
)に
行基
が開山。当時は正覚院と称した。
延暦
6年(
787年
)、
紀是広
が7歳で亡くなった子を弔うために七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊)を建立した事から、これに因んで七寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍は
仁和
3年(
887年
)の水害や
天慶
4年(
941年
)の兵火により荒廃したが、
仁安
2年(
1167年
)、
勝幡城
城主・尾張権守
大中臣朝臣安長
が娘の菩提を弔うため、婿であった豊後守親実と共に計らって寺を現在の
稲沢市
七ツ寺町に移し、七堂伽藍と十二僧坊も再建した。
安長は
安元
元年(
1175年
)から
治承
2年(
1178年
)に掛けて
一切経
を書写させると共に、
阿弥陀如来
像と
観音菩薩
・
勢至菩薩
像を奉納し、寺の名を稲園山長福寺と改めたが、安長が建立した寺塔のほとんどは
建武
年間の戦火で焼失した。
天正
19年(
1591年
)、
豊臣秀吉
の命を受けた
清洲
の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に寺を移して本堂を再建。
慶長
16年(
1611年
)、
徳川家康
の
清洲越し
の命によって現在地に移転されるに当たって本堂が清洲から移築。かつて失われた諸堂も再建された。
元禄
13年(
1700年
)には
尾張藩
二代藩主
徳川光友
により三重塔が再建され、
享保
15年(
1730年
)より
尾張徳川家
の祈願所となった。境内には芝居小屋が建ち並び、当時の
大須
界隈にあっては
大須観音
や
名古屋御坊(西本願寺)
[1]
を凌ぐ寺勢を誇ったとも伝わる。
明治
12年(
1879年
)、総本山
智積院
の末寺となり、明治44年(
1911年
)には準別格本山に昇格したが、
昭和
20年(
1945年
)3月19日の
名古屋大空襲
で
本堂
、
三重塔
など
経蔵
以外の
七堂伽藍
全てを焼失。境内のほとんどは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、現在では街中にある小さな寺の様相となっている。