2016.10.24更新
大安寺
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太子遺願之大寺
虚空蔵尊
南無佛
所在地
奈良県奈良市大安寺2丁目18-1
位置
北緯34度40分4.8秒 東経135度48分45.8秒
宗派
高野山真言宗
本尊
十一面観音
創建年
伝・
飛鳥時代
開基
伝・
聖徳太子
札所等
大和十三仏霊場
第13番
神仏霊場巡拝の道
第17番
聖徳太子霊跡
第11番
大和北部八十八ヶ所霊場
第1〜2番
文化財
十一面観音立像(重文)
馬頭観音立像(重文)
不空羂索観音立像(重文) ほか
大安寺(だいあんじ)は、
奈良市
中心部にある
高野山
真言宗
の
仏教
寺院
。本尊は
十一面観音
。開基(創立者)は
聖徳太子
と伝える。
南都七大寺
の1つで、
奈良時代
(
平城京
)から
平安時代
前半は
東大寺
、
興福寺
と並ぶ大寺であった。
聖徳太子
の建てた「熊凝精舎」が
官寺
となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。平城京に移って大安寺を称したときの伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち(七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、「南大寺」の別名があった。この時代、東大寺
大仏開眼
の導師を務めたインド僧・
菩提僊那
をはじめとする歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。
平安時代以後は徐々に衰退し、
寛仁
元年(
1017年
)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末〜近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。
大安寺は
710年
の平城京への遷都に従い、
飛鳥地方
にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(→
元興寺
)、
薬師寺
(→
遷都後の薬師寺
)、厩坂寺(うまやさかでら、かつては山階寺、→
興福寺
)などは新都へ移転している。大官大寺も、説では霊亀2年(716年)に平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。
平城京の街路は1町(約109メートル)ごとに碁盤目状に配され、4町ごとに走る東西路は一条大路、二条大路・・、南北路は一坊大路、二坊大路・・、と名付けられていた。大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていたが、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。伽藍配置の特色は、東西両塔(七重塔)が金堂から大きく離れ、南大門の外側(南方)に建つことであり、「大安寺式伽藍配置」と称されている。
この時代の大安寺は元興寺と並んで日本における
三論宗
の2大流を成した。三論宗は、
隋
代に嘉祥大師
吉蔵
(549年 - 623年)が大成した宗派で、
智蔵
の弟子で
唐
に16年間滞在した留学僧・
道慈
が護国経典として重視された新訳『
金光明最勝王経
』を日本にもたらし、大安寺の整備に尽力するなど、奈良時代に上代仏教史上重要な人物である。『大安寺資財帳』の天平19年(747年)の記録によれば、当時大安寺には887名の僧が居住していた。唐僧・
鑑真
を日本へ招請するため唐に派遣された
普照
と
栄叡
、
空海
や
最澄
と交流のあった
勤操
、また最澄の師にあたる
行表
も大安寺の僧であり、大安寺が日本の上代仏教の発展に果たした役割は大きかった。天平8年(
736年
)、大安寺には
行基
、
理鏡
、栄叡、普照らの招きにより
インド
僧の
菩提僊那
、唐僧の
道璿
、
チャンパ国
(現在の
ベトナム
)僧の
仏哲
が来朝して滞在するなど、帰化僧・留学僧を含む著名な僧も在籍した。菩提僊那は東大寺大仏開眼の導師を務めた僧として知られる。
平安京遷都後の大安寺
は
都が
平安京
へ移り、天長6年(
829年
)には空海が大安寺の別当に補されるなどしたが、仏教は
東寺
や
延暦寺
を中心とした
密教
に中心が移ったために宗風は振るわず、また境内や伽藍の焼失が相次ぎ次第に衰退した。
神仏習合
では
八幡神
を勧請(貞観元年、
859年
)している。寛仁元年(1017年)の火災では本尊釈迦如来像と東塔を残してことごとく焼失し、以後、かつての規模を取り戻すことはなかった。
慶長
元年(
1596年
)の
地震
による損害の後、近世には小堂1つを残すのみであったという。
大安寺の旧本尊・乾漆造釈迦如来像は『大安寺資財帳』に
天智天皇
発願の像と記され、名作として知られていた。
平安時代
末期の
保延
6年(
1140年
)に南都の諸寺を巡った大江親通の『七大寺巡礼私記』は、薬師寺の本尊像(現存、
国宝
)についての記述のなかで、「薬師寺の本尊像は優れた作だが、大安寺の釈迦像には及ばない」という趣旨のことを述べている。平安時代末期に和様彫刻様式を完成させた仏師・
定朝
も大安寺の釈迦像を模作したことが知られている。この釈迦像も今は失われ、見ることができない。
なお大安寺自身により、学術論文集『南都大安寺論叢』(南都国際仏教文化研究所編、
平成
7年・
1995年
)と、『大安寺史・史料』(昭和59年・
1984年
)が刊行されている。