2017.04.11更新
般若寺
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石塔薬師
妙吉祥
八字文殊菩薩
所在地
奈良県奈良市般若寺町221
位置
北緯34度42分0.22秒 東経135度50分10.38秒
山号
法性山
宗派
真言律宗
本尊
文殊菩薩
(重要文化財)
創建年
伝・
舒明天皇
元年(
629年
)
開基
伝・
慧灌
別称
コスモス寺
札所等
関西花の寺二十五霊場
17番
西国薬師四十九霊場
3番
大和北部八十八ヶ所霊場
第15番
文化財
楼門(国宝)
十三重石塔
木造文殊菩薩騎獅像ほか(重要文化財)
般若寺(はんにゃじ)は、
奈良市
北部・奈良坂(
奈良きたまち
)に位置する
真言律宗
の寺院。山号は法性山、本尊は
文殊菩薩
。コスモス寺の名で知られる。
般若寺は
東大寺
大仏殿
や
正倉院
の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、
平城京
の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と
興福寺
の境をなす)の延長でもある。
般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。寺伝では
舒明天皇
元年(
629年
)、
高句麗
の僧・
慧灌
の創建とされ、天平7年(
735年
)、
聖武天皇
が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の
大般若経
を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。別の伝承では
白雉
5年(
654年
)、
蘇我日向
臣が
孝徳天皇
の病気平癒のため創建したともいう(『
上宮聖徳法王帝説
』裏書)。
鎌倉時代の
文永
4年(
1267年
)、当時の本尊・文殊菩薩像を開眼供養した際の願文(がんもん)では、「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧
観賢
によって再興された」とする説を採用している。しかし、
観賢
(
854年
−
925年
)が関与した「般若寺」は山城国(今の
京都市
右京区
鳴滝般若寺町
)にあった寺であり、上記の説は同名別寺院を混同したものである。この、観賢再興説が誤りであるという点は、すでに江戸時代・享保20年(1735年)刊の『奈良坊目拙解』(村井古道著)で指摘されている。
信頼できる史料における「般若寺」の初出は、
天平
14年(
742年
)10月3日付の「金光明寺写経所牒」(
正倉院
文書)であるとされている。ただし、これについても、今の奈良県
香芝市
にあった片岡寺(別名般若寺)を指すとみる説もある。
その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。
治承
4年(
1180年
)、
平重衡
による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。
廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・
良恵
(りょうえ)らによって建立され、
建長
5年(
1253年
)頃までに完成した。その後、
西大寺
の僧・
叡尊
によって本尊や伽藍の復興が行われた。叡尊は、西大寺を本山とする
真言律宗
の宗祖で、日本仏教における
戒律
の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、般若寺の近くには「
北山十八間戸
」(国の史跡)という
ハンセン病
などの不治の病の人を収容する施設もあった。叡尊は建長7年(
1255年
)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、
文永
4年(
1267年
)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要した。
その後、
延徳
2年(
1490年
)の火災、
永禄
10年(
1567年
)
東大寺大仏殿の戦い
での
松永久秀
の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。
明治初期の
廃仏毀釈
でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。なお、般若寺の客殿は実業家
畠山一清
によって東京都港区白金台に移築され、第二次世界大戦後は料亭「
般若苑
」として営業していた(現在は廃業)。