2014.05.15更新

渋谷向山古墳(景行天皇陵)

この古墳は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝えられる第12代景行天皇の陵墓とされ、「景行天皇山辺道上陵(けいこうてんのうやまべのみちのへのみささぎ)」として宮内庁が管理しています。
 地区の名を取って「渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳」とも呼ばれています。
 古墳は等高線の乱れが少なく、崇神天皇陵のように大きな改変を受けていません。また、周濠も幅が狭く、築造時の姿を良くとどめているとされ、周濠と周濠を仕切る土手の調査では、築造時の葺石が確認されています。
 全長約300m、後円部径約168m、後円部の高さ約25m、前方部幅約17m、前方部の高さ約23mを測り、前方部はほぼ西を向き、周りには濠が巡っています。埋葬施設は不明です。
 年代は、これまでに出土した土器から4世紀後半(古墳時代前期後半)とされています。崇神天皇陵に続いて造られた大王の墓で、 前方後円墳、円墳、方墳、各1基の陪塚(ばいちょう)を持ち、4世紀の古墳としてはわが国で最大規模の古墳です。
 遺物は埴輪や土器などしか見つかっていませんが、伝世品として関西大学が所藏する石枕があります。1864年の出土とされ、大王の頭部を飾るのにふさわしい優品です。
在位期間
景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日
先代 垂仁天皇
次代 成務天皇

陵所 山辺道上陵
異称 大足彦忍代別天皇
大帯日子淤斯呂和氣天皇
大足日足天皇
大帯日子天皇
大帯日古天皇
大帯比古天皇
父親 垂仁天皇
母親 日葉酢媛命
皇后 八坂入媛命
子女 櫛角別王
大碓皇子
日本武尊
成務天皇
五百城入彦皇子
忍之別皇子
稚倭根子皇子
大酢別皇子
神櫛皇子
渟熨斗皇女
五百城入姫皇女
依姫皇女
五十狭城入彦皇子
吉備兄彦皇子
高城入姫皇女
弟姫皇女 他多数
皇居 纒向日代宮

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。

位置 北緯34度33分3秒
東経135度50分56秒
所在地 奈良県天理市渋谷町
形状 前方後円墳
規模 墳丘長310m
高さ23m
築造年代 4世紀後半
被葬者 第12代景行天皇宮内庁治定)
史跡指定 宮内庁治定(山邊道上陵)

渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)は、奈良県天理市渋谷町にある前方後円墳
宮内庁により「山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」として第12代景行天皇に治定されている。
現在は景行天皇陵に治定されているが、江戸時代には崇神天皇陵と思われていた。築造年代は現在の崇神天皇陵である行燈山古墳より少し遅れた4世紀後半と推定される。
1996年に調査が行われた。