2015.05.20更新

垂仁天皇陵

所属 佐紀盾列古墳群
所在地 奈良県奈良市尼ケ辻町字西池
位置 北緯34度40分48.28秒 東経135度46分52.18秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長227m
築造年代 5世紀前半
埋葬施設 長持形石棺
被葬者 第11代垂仁天皇宮内庁治定)
史跡指定 宮内庁治定「菅原伏見東陵」
特記事項 全国第20位の規模

宝来山古墳(ほうらいやまこふん)は、奈良県奈良市尼ケ辻町字西池にある前方後円墳
宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらふしみのひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇に治定されている。
宮内庁が管理している。前方部に拝所があり、墳丘内は立ち入りはできない。 垂仁天皇の臣下である、田道間守命塚が周濠の東側にある。 これは堤の一部が残ったものとされている。陪塚が6基ある。5世紀前半の築造。また周濠の東側が出っ張っている。

垂仁天皇
第11代天皇
在位期間
垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日
先代 崇神天皇
次代 景行天皇

陵所 菅原伏見東陵
御名 活目入彦五十狭茅?
異称 活目入彦五十狭茅尊
活目尊 等
父親 崇神天皇
母親 御間城姫命
皇后 狭穂姫命
日葉酢媛命
子女 景行天皇 他
皇居 纒向珠城宮
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い[1]
(みささぎ)は、奈良県奈良市尼辻西町にある菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は宝来山古墳前方後円墳、全長227m)。
『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」とある。『延喜式諸陵寮には「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」と記される。
現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。
また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。