2014.05.15更新

行燈山古墳(崇神天皇陵)

位置 北緯34度33分27秒
東経135度50分56.0秒
所在地 奈良県天理市柳本町
形状 前方後円墳
規模 墳丘長242m
高さ23m
築造年代 4世紀前半
被葬者 第10代崇神天皇宮内庁治定)
史跡指定 宮内庁治定(山邊道勾岡上陵)

行燈山古墳(あんどんやまこふん、あんどやまこふん、行灯山古墳とも書く)は、奈良県天理市柳本町にある古墳時代前期の前方後円墳帆立貝形古墳にも分類される)。
宮内庁により「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」として第10代崇神天皇に治定されている。
本古墳は、龍王山の斜面の先端を利用して造られており、平野の方に前方部を北西に向けている。後円部がより高い山側にある。 三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。その政治勢力は、三輪王朝とか初瀬王朝と呼ばれている。初期ヤマト政権の大王陵である。
幕末の文久の修陵の開始時には、本古墳が景行陵だったのが、修陵事業の完成直前の1865年(慶応元)2月に、崇神陵に取り替えられた。これなどは、考古学の遺跡名に陵墓名を持ち込むと混乱を引き起こす原因になる好例である。
宮内庁の管轄する古墳であるので、研究者や国民は、自由に立ち入りできない。

在位期間
崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
先代 開化天皇
次代 垂仁天皇

陵所 山邊道勾岡上陵
異称 御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇
父親 開化天皇
母親 伊香色謎命
皇后 御間城姫
子女 垂仁天皇彦五十狭茅命国方姫命千千衝倭姫命倭彦命五十日鶴彦命豊城入彦命豊鍬入姫命大入杵命八坂入彦命渟名城入媛命十市瓊入媛命
皇居 磯城瑞籬宮
崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
大和朝廷の創始者とされる第10代天皇、崇神天皇の陵墓「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ)」として陵墓に指定され、宮内庁が管理しています。
 地域の名を取って「行燈山(あんどんやま)古墳」とも呼ばれています。
 周濠に沿う緑が美しく、展望も良いことから、山の辺の道を歩く人達にとって、絶好の休憩場所として親しまれています。
 古墳は全長約242m、後円部径約158m、口縁部の高さ約31m、前方部の幅約100m、前方部の高さ約13.6m、周濠を含めた全長は約360m、最大幅約230mの巨大な前方後円墳です。築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半)の早い時期と推測されています。
 埋葬施設は不明ですが、昔の絵図には後円部墳頂に南北方向の盗掘跡と見られる掘り込みが描かれており、掘り込みのようすから竪穴式石室と考えられています。
 遺物は周濠から銅板、金銀細工品、土器などが出土しています。
銅板は縦54cm、横71cmほどの長方形で、採られた拓本には表面に内行花文鏡に似た文様、裏面に四区画に分けた文様が陽刻されています。鏡に関係した銅製品と考えられますが、他に例が無く、用途は不明です。
 また、この古墳は大王墓にふさわしく、3基の陪塚を伴っています。南アンド古墳(全長65m)、アンド山古墳(全長120m)、天神山古墳(103m)です。全て前方後円墳で、地方では豪族クラスの規模を誇ります。