2017.04.11更新

八坂神社


トップページへ戻る

所在地 奈良県奈良市押上町26
御祭神 主祭神 素盞鳴尊 (すさのうのみこと)
奇稲田姫神 (くしいなだひめのかみ)
八柱之御子神 (やはしらのみこかみ)
末社祭神 大己貴命 (おおなむちのみこと)
押上町北東部、旧京街道(般若坂越)に西面して鎮座。祇園社ともいう。祭神は素盞鳴尊・奇稲田姫神・大己貴命・八柱之御子神。 「東大寺雑集録」によると建武五年(1338)六月五日に京都祇園社を勧請。東大寺鎮守八幡宮の末社としたという。永享十一年(1439)の東大寺執行所日記(東大寺図書館蔵薬師院文書)に載せる建武五年六月八日の影向の儀の支配状は勧請時の神事に関するもので、神子神入の酒肴を伊賀黒田壮をはじめ、東大寺領の九カ荘が負担している。当初は東大寺が鎮祭したが、のちには東大寺七郷(おおむね手掻・押上・中御門・今小路・水門・今在家・北御門)が中心となり、六月十四日の祭礼を祇園会または御霊会と称して、南の天神社(現奈良市高畑町)の小五月会に対抗して盛んであった。京都の祇園祭と同じく山・舞車・笠鉾を出し、「大乗院寺社雑事記」文明十一年(1479)六月十四日条には、押上郷と中御門郷が舞車の順番でもめ、見物衆が巻き込まれて三人に負傷者も出たことや、各郷の山の順序の決め方などが記されている。こうした争いは「多聞院日記」にもみえ、永正二年(1505)六月十三日条は、押上と中御門の争いで舞車は近年久しく中絶していたが、決着のついたことを記し、翌十四日条に今日祇園会があって山は今少路(今小路)、次に押上、その次に中御門の順で渡ったとある。永録十年(1567)十月十日夜、東大寺大仏殿に陣した三好三人衆に対して松永久秀が多聞城(現奈良市)から攻寄せて当社も類焼、それまで中御門の北に神宮、南に神宮寺があったが、兵火後旧神宮寺の地に移座したのが現在の社地という(奈良坊目拙解)。これを契機に祇園会は漸次衰微、神社も慶長十一年(1606)・寛永十九年(1642)・宝永元年(1704)の火事で焼け、宝永五年には春日若宮古殿を拝領したという(奈良坊目拙解)。現社殿は新造で、祇園祭も近隣の数町により営まれるにすぎない。