2014.05.04更新
岡山城
別名
烏城、金烏城
城郭構造
梯郭式平山城
天守構造
複合式望楼型4重6階(
1597年
築)
(
鉄筋コンクリート
造外観復元・
1966年
)
築城主
上神高直?
築城年
1346年
-
1369年
(
正平
年間)
主な改修者
宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主
宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年
1873年
(明治6年)
遺構
櫓、石垣、堀
指定文化財
国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)
国の史跡
再建造物
天守・門・塀
位置
北緯34度39分54.65秒
東経133度56分9.79秒
岡山城(おかやまじょう)は、
日本
の
城
。
岡山県
岡山市
北区
にある国指定の
史跡
。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)
[注 1]
。
戦国時代
に、
備前
西部から
美作
、
備中
に勢力を伸ばした
宇喜多氏
が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後
小早川氏
、
池田氏
により整備、拡張が行われた。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、
旭川
河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大な
デルタ地帯
中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に
宇喜多直家
が入城・改築し、後に子の
宇喜多秀家
が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。
[1]
[2]
城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる
平山城
となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため
旭川
の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。
天守
は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ
安土城
天主を模したものではないかと言われているが、
羽柴秀吉
による
大坂城
天守を模しているという説もある。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる
姫路城
と対比されることもある。元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺える。
明治時代
に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多い。さらに
第二次大戦
中、
空襲
のため天守・石山門を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の
重要文化財
に指定され、「岡山城跡」として
史跡
にも指定されている。その他、京橋御門が岡山市
南区
小串に移築され現存している。城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に
山陽放送
、
林原美術館
、
岡山市民会館
が、三之丸跡に
岡山県庁
、
岡山県立図書館
などの公共機関がある。近年本丸御殿の再建が検討されたが、2008年度時点でもその目処は立っていない。
また隣接する
大名庭園
・
後楽園
は、
水戸
・
偕楽園
、
金沢
・
兼六園
とともに、
日本三名園
として並び称される。