2017.05.19更新

坐摩神社


トップページへ戻る

        坐摩神社

所在地 大阪府大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号
位置 北緯34度40分51秒 東経135度29分55秒
主祭神 坐摩神
(生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神の総称)
社格 式内社(大)
(称)摂津国一宮
官幣中社
別表神社
創建 神功皇后年間
札所等 神仏霊場巡拝の道49番(大阪8番)
例祭 4月22日(花祭)
主な神事 懸鳥祭(12月2日

坐摩神社(いかすりじんじゃ)は、大阪府大阪市中央区にある神社式内社(大社)で、摂津国一宮を称する。旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社。神紋は「白鷺」。
正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれる。
「いかすり(ゐかすり)」の語源には諸説あるが、坐摩神社では、「居住地を守ること」という意味の「居所知」(ゐかしり)の転と説明している。また、『延喜式』には「さかすり」の訓も記されている。
大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在である。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が迎える。
住居守護の神、旅行安全の神、安産の神として信仰されている。最終の神階は従五位下。
当社の始まりは、神功皇后三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。『万葉集』の中には、難波津から西国へ向かう防人が旅の安全を坐摩社に祈る歌がある。同社の神紋白鷺なのも、神功皇后が坐摩の神の教えにより白鷺の多く集まる場所に坐摩神を奉遷なされたことに由来する。
創建時の社地は現在と異なり、渡辺津・窪津・大江などと呼ばれたかつての淀川河口である。旧社地は遷座後に御旅所が置かれた現在の中央区石町(こくまち)に推定され、天神橋 - 天満橋間の南、近世以降「八軒家」と呼ばれる地に概ね該当する。なお、石町には摂津国の国府も置かれており、町名は国府の転訛と言われている。平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んでこの神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。
渡辺津は窪津ともよばれ、京からの船が着く熊野古道の基点でもあった。熊野三山への参詣道沿いに立っていた「熊野九十九王子」のうち、最初の「窪津王子」はこの坐摩神社行宮の場所にあったと思われる。
天正11年(1583年)の大坂城築城に際して、西横堀川に近い現在地に遷座した。本町通にも近く、多くの物売りや見せ物が門前に集まった。特に古着屋は「坐摩の前の古手屋」として名高く、上方落語にも「古手買」「壺算」などで登場する。また、初代桂文治が初めてこの神社で寄席を開いたとされている。この神社の近くで後の「そごう」が古手屋として生まれ、船場が繊維の町として発展するきっかけになった。また西横堀川沿いには陶器問屋が並んだが、当社の末社に陶器神社があることによる。
所在地の現在の町名は「久太郎町四丁目渡辺」と、番地ではなく「渡辺」となっている。神社と氏子が渡辺津から移転してきたことで、江戸時代から既に「北渡辺町」「南渡辺町」という町名になっており、1930年(昭和5年)に「渡辺町」となった。
しかし、1988年昭和63年)に旧南区東区の統合に伴う地名変更の際、「渡辺町」は統合されて消えることとなった。そこで、渡辺姓の末裔で作る「全国渡辺会」が渡辺の名のルーツである渡辺町の消滅に対し反対運動を起こした。結局市は苦肉の策により、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すことで決着をみた。
1871年(明治4年)に府社に列したが1936年(昭和11年)には官幣中社に昇格し、官幣社にふさわしい新社殿が造営された。しかし1945年(昭和20年)の第一次大阪大空襲で焼失した。現在の社殿は1960年(昭和35年)に外観を1936年の社殿に模して再建された鉄筋コンクリート造りのものである。今も陶器祭りが行われている。
2011年(平成23年)10月19日、桂文治(初代)が寄席を開いた故事に則り、坐摩神社境内に「上方落語寄席発祥の地」の顕彰記念石碑が建立され、除幕式が執り行われた。