2015.04.26更新

大坂城(大阪城)

別名 金城、錦城
城郭構造 輪郭式平城または平山城
天守構造 複合式望楼型(豊臣期・1585年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(徳川期・1626年再)
いずれも非現存
独立式望楼型5重8階(1931年SRC造復興)
築城主 豊臣秀吉
築城年 1583年天正11年)
主な改修者 徳川秀忠
主な城主 豊臣氏奥平氏徳川氏
廃城年 1868年明治元年)
遺構 櫓、門、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(櫓・門など)
登録有形文化財(再建天守)
特別史跡
再建造物 天守
位置 北緯34度41分14.56秒
東経135度31分33.04秒
大坂城・大阪城(おおさかじょう[1])は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区大阪城の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代日本の城および、由来する大阪市の地名である。別称は金城あるいは錦城という。近代以降、「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、1959年昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏江戸幕府によるものであることが分かっている。
大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。石山合戦終了後、織田信長の命令で丹羽長秀に預けられ、後に四国攻めを準備していた津田信澄が布陣したこともあったが、信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。
現在は幕末期の櫓や門などが現存し、城跡は国の特別史跡に指定されている。昭和初期に復興された天守は登録有形文化財になっている。