2015.07.03更新
三十三間堂
大悲殿
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所在地
京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
位置
北緯34度59分16.31秒
東経135度46分18.23秒
山号
妙法院所属の仏堂につき山号はなし
宗派
天台宗
本尊
千手観音
創建年
長寛
2年(
1165年
)
開基
後白河天皇
正式名
妙法院の一部。建物の正式名称は
蓮華王院本堂
札所等
洛陽三十三所観音霊場
第17番
文化財
本堂他(国宝)
築地塀他(重要文化財)
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は
京都市
東山区
にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある
天台宗
妙法院
の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は
後白河上皇
が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は
千手観音
である。
この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた
法住寺殿
があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
上皇が
平清盛
に建立の資材協力を命じて
旧暦
の
長寛
2年12月17日(西暦
1165年
1月30日)に完成したという。創建当時は
五重塔
なども建つ本格的な寺院であったが、
建長
元年(
1249年
)の火災で焼失した。
文永
3年(
1266年
)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は
和様
に属する。
桃山時代には、
豊臣秀吉
の東山大仏(
方広寺
)造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備された(『伽藍』の項参照)。
「三十三間堂」の名称は、
間面記法
による表記「三十三間四面」(
#構造
)に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『
法華経
』等に
観音菩薩
が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。
江戸時代
には各
藩
の
弓術
家により本堂西軒下(長さ約121m)で
矢
を射る「
通し矢
」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである(右上浮世絵画像参照)。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったのである。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。
弓道
をたしなむ
新成人
参加者が
振袖
袴
姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「
遠的
」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものである。
三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年
頭痛
に悩まされていた。
熊野
参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「
洛陽因幡堂
の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の
富田川
)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。
なお、これより前、後白河上皇の父・
鳥羽上皇
は
平忠盛
の寄進により、鴨東白河に聖観音をまつる
得長寿院
の千体堂を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進によりこうした長堂を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。
三十三間堂の名称は、本堂が
間面記法
で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間
[1]
の周囲四面に一間の
庇
(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の
内陣
(
母屋
・身舎)で、建物外部から見る柱間は35ある。正面に7間の向拝を付けるが、これは
慶安
2~4年頃の増築である。
ここで言う「
間
」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく
[2]
その柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない
[3]
。「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する」として堂の全長は33×2×1.818で約120m、と説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである(ただし実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する)。
拝観料必要