2015.06.02更新

昭憲皇太后伏見桃山東陵

昭憲皇太后
一条家
称号 中宮皇后
全名 勝子(まさこ)
→美子(はるこ)
お印 若葉(わかば)
出生 1849年5月9日
嘉永2年4月17日
平安京
死去 1914年4月9日
(満64歳没)
静岡県駿東郡静浦村
沼津御用邸
埋葬 1914年
京都府紀伊郡伏見町
伏見桃山東陵
配偶者 明治天皇
父親 一条忠香
母親 新畑民子
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日1849年5月9日) - 1914年大正3年)4月9日)は、明治天皇皇后。旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。
嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣一条忠香の三女として誕生。生母は側室[1]・新畑民子[2]右大臣一条実良(1835−1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君[3]疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子[4]とは、義理の妹にあたる。
はじめの諱は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名(皇女富貴宮の諱を避けるため)。
慶応3年6月28日1867年7月29日)、新帝明治天皇の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦したと言われている。
明治元年12月26日1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。
※一条美子 女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)宮内庁書陵部編纂「皇室制度史料(后妃4)」吉川弘文館所収
從三位藤原朝臣美子
右中辨藤原朝臣長邦傳宣
權中納言藤原朝臣公正宣
奉 勅宜爲女御者
明治元年十二月二十八日 中務少輔ーーーーー輔世
(訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る。

この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王践祚すると同時に皇太后となった。
1914年大正3年)4月9日2時10分、沼津御用邸にて崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。
同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后」と追号され[5]、翌年5月1日に、明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。
陵墓は伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)に定められた。