2016.11.21更新
東福寺
所在地
京都府
京都市
東山区
本町十五丁目778番地
位置
北緯34度58分37.38秒
東経135度46分26.74秒
山号
慧日山(えにちさん)
宗派
臨済宗東福寺派
寺格
大本山、
京都五山
四位
本尊
釈迦如来
創建年
嘉禎
2年(
1236年
)
開基
九条道家
正式名
慧日山 東福禅寺
文化財
<国宝>
三門、宋版太平御覧、
絹本著色無準師範像 他
<重要文化財>
常楽庵、禅堂、偃月橋、
絹本著色釈迦三尊像、
木造地蔵菩薩坐像 他多数
東福寺(とうふくじ)は、
京都市
東山区
本町十五丁目にある
臨済宗
東福寺派
大本山
の寺院。
山号
を慧日山(えにちさん)と号する。
本尊
は
釈迦如来
、開基(創立者)は、
九条道家
、
開山
(初代
住職
)は
円爾
である。
京都五山
の第四位の
禅寺
として中世、近世を通じて栄えた。
明治
の
廃仏毀釈
で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の
塔頭
(山内寺院)を有する大寺院である。
東福寺は京都市東山区の東南端、
伏見区
と境を接するあたりにある。この地には
延長
2年(
924年
)に
藤原忠平
によって建てられた
藤原氏
の氏寺・
法性寺
の巨大な
伽藍
があった(法性寺は、
JR
・
京阪
東福寺駅
近くに小寺院として存続している)。
嘉禎
2年(
1236年
)、
九条道家
(
摂政
)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は
奈良
の
東大寺
、
興福寺
の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は
延応
元年(
1239年
)から始めて、完成したのは
建長
7年(
1255年
)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は
元応
元年(
1319年
)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。
九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を迎えた。円爾は
駿河国
栃沢(現
静岡市
葵区)の人で、
嘉禎
元年(
1235年
)、宋に渡って
径山(きんざん)興聖万寿禅寺
の高僧・
無準師範
に入門。
印可
(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て
仁治
2年(
1241年
)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の
承天寺
に住したが、同寺が
天台宗
徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で
上洛
、東福寺の開山に迎えられた。
東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、
法堂
(顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは
文永
10年(
1273年
)であった。その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、
九条家
、
鎌倉幕府
、
足利家
、
徳川家
などの援助で再建されてきた。
昭和
51年(
1976年
)
韓国
の
全羅南道
新安郡
智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだ
ジャンク船
が発見、引き揚げられた(
新安沈船
)が、積荷
木簡
の中には「東福寺」「十貫公用」などの字が見られることから、この船は焼失した東福寺の造営料を名目として、鎌倉幕府公認で派遣された唐船(
寺社造営料唐船
)であることが推測されている。近代に入って明治14年(1881年)にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、
国宝
の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。
東福寺からは歴代多くの名僧を輩出しており、『
元亨釈書
』の著者である
虎関師錬
、
室町時代
に画僧として活躍し、その後の
仏画
や
水墨画
に多大な影響を及ぼした
吉山明兆
などが著名である。
平成26年
6月、国の
名勝
に指定された。同年10月、完成当時の庭園が復元された。
三門
、
本堂
、
方丈
、
庫裏
などからなる主要伽藍を中心に25の塔頭寺院がある。主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)が架かる。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。橋を渡ると、開山円爾を祀る常楽庵がある。
応仁の乱
の戦火を免れた貴重な
文化財
が数多く存在する。
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