2017.03.01更新
護國院
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大黒天
釈迦如来
位置
北緯35度43分9.5秒
東経139度46分12.6秒
山号
東叡山
宗派
天台宗
寺格
寛永寺子院
本尊
釈迦如来
創建年
寛永
2年(
1625年
)
開基
生順
正式名
東叡山寛永寺護国院
別称
東叡山釈迦堂
札所等
谷中七福神
大黒天
護国院(ごこくいん)は
東京都
台東区
上野公園
にある
天台宗
の寺院。東叡山
寛永寺
最初の子院である。「東叡山寛永寺護国院」と号し、「東叡山釈迦堂」の別名がある。
谷中七福神
の1つである
大黒天
を安置する。
寛永2年(1625年)、
天海
僧正により東叡山寛永寺が開山したのと同時に、天海の命を受けた開基
生順
によって、東叡山寛永寺最初の子院として護国院は建立された。
寛永7年(1630年)、天海により境内に一堂が建立され、古仏師春日の作といわれる釈迦、文珠、普賢の三尊像を安置、本尊としたことから、釈迦堂と名づけられ、
別当
寺(管理寺院)となる。草創期の東叡山においては、第一の大建築物であり、元禄期に根本中堂が完成するまで、護国院は東叡山総本堂の役割を果した。
大阪城落城25年となった寛永16年(1639年)、この釈迦堂で豊臣、徳川両軍の霊を弔う大念仏法要が執り行われた功績を称えた三代将軍
徳川家光
より、
藤原信実
筆と伝えられる
大黒天
の画像が奉納された。以来この像を祀り、護国院大黒天として信仰を集めた。正月三日の福湯の行事は、江戸名所図会、江戸砂子にあるごとく知られ、
谷中七福神
のひとつとして信仰されている。
慶安4年(1651年)、当初は寛永寺本坊裏手、現在の
東京国立博物館
北の寛永寺墓地の位置にあった護国院を、
徳川家霊廟
を建立する際、幕府の命により北寄りに移築。さらに 宝永6年(1709年) 五代将軍
徳川綱吉
の霊廟建立にあたり清水門の傍らの現在地に移転した。享保2年(1717年)に釈迦堂は焼失するが、同7年(1722年)に再建された。
天明3年(1783)、日本災害史上最大といわれる
浅間山
大噴火において、
上野国
鎌原観音堂
付近(現
群馬県
嬬恋村
)の被災者は、東叡山寛永寺に救済を求めた。被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走し、流死者の回向を30日間施行。救済に赴いたのが、護国院第13世住職から、前年信州
善光寺
別当大勧進第79世貫主に就任したばかりの
等順
であった。
昭和2年(1927年)、東京市立二中(現在の上野高校)の創立にあたり境内地の大半を譲渡し、釈迦堂を現在の位置に移動した。本堂脇の庫裏の1階部分は1927年竣工で、
岡田信一郎
設計による和風建築である(登録有形文化財)。