1189(文治5)年、源頼朝が当地の豪族・豊島氏らと共に奥州藤原氏を討伐(奥州合戦)、その帰路に当地に立ち寄り、鎌倉・鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられる。
この由緒は田端八幡神社と同様であり、旧田端村が台地上の上田端と崖下の下田端という、ふたつの地域に分かれていたため分霊したものと考えられている。
旧別当寺は俳人・正岡子規の墓などがある和光山大龍寺で、当社に隣接して現存する。
1945(昭和20)年4月19日の空襲により拝殿や社務所・神楽殿等を焼失。
戦後再建され、無事だった本殿も後に造替されている。