2017.01.12更新
神田神社(神田明神)
神田神社
所在地
東京都
千代田区
外神田
2丁目16番2号
位置
北緯35度42分07.6秒
東経139度46分04.8秒
主祭神
大己貴命
少彦名命
平将門命
社格
等
旧准勅祭社・旧府社・別表神社
創建
伝天平2年(730年)
本殿の
様式
入母屋造本瓦型銅板葺
札所等
東京十社
例祭
5月15日
ごろ(神田祭)
神田明神(かんだみょうじん)は、
東京都
千代田区
外神田
二丁目に鎮座する
神社
。正式名称「神田神社」。
神田祭
をおこなう神社として知られる。
神田
・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧
神田市場
・築地魚市場など108か町会の総
氏神
である。
旧社格
は
府社
(
明治
3年(
1870年
)まで
准勅祭社
)。現在は
神社本庁
の
別表神社
となっている。また旧准勅祭社の
東京十社
の一社である。
一ノ宮に
大己貴命
(オオナムチノミコト、だいこく様)、二ノ宮に
少彦名命
(スクナヒコナノミコト、えびす様)、三ノ宮に
平将門命
(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)の3柱を祀る。
社伝によれば、
天平
2年(
730年
)、
武蔵国
豊島郡
芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと
伊勢神宮
の
御田
(おみた=
神田
)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平
5年(
935年
)に
平将門の乱
を起こして敗死した平将門の首が
京
から持ち去られて当社の近くに葬られ、
将門の首塚
は東国(
関東地方
)の
平氏
武将の崇敬を受けた。
嘉元
年間(14世紀初頭)に
疫病
が流行し、これが将門の
祟り
であるとして供養が行われ、
延慶
2年(
1309年
)に当社の
相殿神
とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。
江戸時代
、
江戸城
増築に伴い
慶長
8年に神田台へ、さらに
元和
2年(
1616年
)に現在地へ遷座した
[2]
。江戸総鎮守として尊崇された。
神田祭
は
江戸三大祭り
の一つである。
山車
は
将軍
上覧のために江戸城中に入ったので、「
天下祭
」と言われた。当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した。「神田
囃子
」は東京都の無形民俗文化財に指定されている。江戸初期に豪華な桃山風社殿が、
天明
2年(
1782年
)には
権現造
の社殿が造営されたが、
1923年
(
大正
12年)の
関東大震災
で焼失した。その後、当時では珍しい
鉄骨鉄筋コンクリート構造
で権現造を模して再建されたことから、
1945年
(
昭和
20年)の
東京大空襲
では、境内に
焼夷弾
が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。
江戸時代には神田明神と名乗り、周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くあったが、明治に入って神社が国家の管理下にはいると、
明治
元年(
1868年
)准勅祭社に指定され、その後、府社に列せられ、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められた。
1874年
(明治7年)、
明治天皇
が
行幸
するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が
茨城県
の
大洗磯前神社
から
勧請
された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後
1984年
(昭和59年)になって本社祭神に復帰した。現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。
また、
野村胡堂
の代表作『
銭形平次 捕物控
』の主人公・銭形平次が当神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」がある。銭形平次は架空の人物である。
神田明神を崇敬する者は
成田山新勝寺
を参拝してはいけないという
タブー
が伝えられている。これは
朝廷
に対して叛乱を起した
平将門
を討伐するため、僧・
寛朝
を
神護寺
護摩堂の
空海
作といわれる不動明王像と共に現在の成田山新勝寺へ遣わせ、乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたことによるもので、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめるとされるため。
なお、同じく将門を祭神とする
築土神社
にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。
ただし、
成田屋
の屋号で知られる歌舞伎の市川宗家では
歌舞伎十八番
の一つ「
鎌髭
」で将門を演じており、「
助六
」を演じる際には魚河岸との関わりから神田明神内にある水神社への参拝を行う。
神田神社
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