2015.08.02更新
心城院
大聖観喜天
十一面観音
当山は元々、湯島天神の別当寺であった天台宗喜見院の「宝珠弁財天堂」と称されていました。ときに元禄7(1694)年、喜見院第三世・宥海大僧都が、道真公とご縁の深い歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが当山の開基で、尊像は比叡山から勧請した慈覚大師円仁作と伝えられております。当時は、現在の湯島天神男坂下が湯島天神の表門にあたり、太田道灌の御殿・皓月亭跡とも伝えられています。享保のころ、寺門維持のため幕府から「富くじ」が発行されました。江戸では、谷中感応寺(現・天王寺)、目黒瀧泉寺(目黒不動)、喜見院(湯島天神)が「江戸の三富」と言われ、大いに賑わいました。
当時の喜見院はかなりの境域がありましたが、明治維新の神仏分離令で惜しくも廃寺となりました。当然、弁財天堂もその影響を受けるところでしたが、聖天さまの御加護により湯島天神との本末関係を断つのみで、奇跡的に廃仏の難を逃れました。
単独の寺院として歩み出した当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」と改めました。
当山は、開基以来幾度となく発生した江戸の大火や関東大震災、東京大空襲の戦火にも遭うことなく法灯を伝えてきました。しかし、約300年の風雪に耐えた本堂や庫裏は老朽化が甚だしくなり、近年に改修され寺観を一新しました。