2015.11.08更新

氣多神社

        氣多神社


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所在地 富山県高岡市伏木一宮1-10-1
位置 北緯36度48分0.8秒 東経137度2分39.5秒
主祭神 大己貴命
奴奈加波比売命
社格 式内社名神大または小)
越中国一宮
県社
創建 天平宝字元年(757年
養老2年(718年)とも)
本殿の様式 三間社流造
例祭 4月18日

気多神社(けたじんじゃ)は、富山県高岡市にある神社式内社名神大社または小社)、越中国一宮旧社格県社
所在地の高岡市伏木は、かつて国府国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。
社伝によれば、当神社が勧請されたのは養老元年(717年)としているが、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では、これに対する傍証は無く、草創については諸説あると述べ、以下の説を紹介している。

  1. 能登国は養老2年(718年)に越前国より分立し、天平13年(741年)に越中国へ合併された後、天平宝字元年(757年)に再び分立しているが、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』[2] によれば、天平13年(741年)から天平宝字元年(757年)までの17年間は、社格からみて羽咋郡気多大社が全越中の一宮だったはずであり、従って国府の所在地であった当所に分霊されたのは天平宝字元年(757年)前後のことであろうとしている。
  2. 『高岡市史』[3]では、能登国が越中国に合併されていた時代、国司が着任もしくは定期的に参詣しなければならない国内随一の大社[4]は、当然に羽咋郡の気多大社であったが、国府から遠すぎるため国府近くに遥拝所が設けられ、能登国分立後に独立の神社になったのではないかとしている。
  3. 『越中国式内等旧社記』[5]には、能登国が越中国から分立した後、能登国の気多大社を勧請して創建されたので「新気多明神」と言う、と述べられている。この「新気多」と言う名称は、後述の『白山之記』[6]にも見える。

その他、林喜太郎 『伏木一宮気多神社』[2]では、社記にある元正天皇の御代である養老2年(718年)に行基により創建されたとする伝承を紹介しているが、これは射水神社別当養老寺が開山したことを模したもので、当神社が養老2年に行基により創建されたとする資料は見当たらない、と述べている。『中世諸国一宮制の基礎的研究』[7]においても『式内社調査報告書』の「天平宝字元年(757年)に越中国から能登国を分立する際、能登国の気多大社から分霊を勧請したものであろうとする説が有力である」との記述を紹介している。
千妙聖人が著述したものに、長寛元年(1163年)白山中宮の長吏隆厳が私注を加えて成立したと伝えられる『白山之記』[6]には、聖武天皇の御代に越中国から能登国が分立した際[8]、越中国二宮であった二神(二上神、射水神社を指すと言われる)が一宮になったこと、その後、越中国に新気多(当神社)が奉祝されると、当神社と射水神社の間に一宮争いが起こり、射水神社が無力の間に当神社が一宮になった、との記事がある。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ記載され、式内社となった。『伏木一宮気多神社』[2]では、当神社が正しく史上に現れたのはこの頃である、と述べている。 『延喜式神名帳』の頭注によれば、延暦3年(784年)3月3日正三位神階に叙せられ、延喜8年(908年)8月16日官幣に預かったとされる。
『延喜式神名帳』では越中国射水郡の式内13社を大社1座・小社12座としているが、当神社は「宮内省図書寮本」や『延喜式』最古の写本である「九条本」で名神大社と記載されている。しかしながら、「出雲本」においては射水神社が名神大社と記載されている。これについて、一般的に「出雲本」は誤記とみなされ、現在は「宮内省図書寮本」や「九条本」を支持して当神社を名神大社する説が有力となっている、と『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では述べている。
しかしながら、『延喜式』の「名神祭」の項には、当神社も射水神社も記載が無い。
橋本芳雄は『式内社調査報告 第17巻』で上記に対し異説を唱えている。それによれば、大伴家持が越中国国守として在勤したのは、ちょうど能登国が越中国に合併されていた時期で、大伴家持の歌日記のごとき『万葉集』の巻17、巻18、巻19には当時の様子が詳細に詠われているにもかかわらず、越中国国府の間近にあったはずの当神社に関する記述が全く見えない[9]のは、この頃まだ当神社が存在していなかったことを暗示しているのではないか、と推定している。その上で、当神社が『延喜式神名帳』で名神大社とされながら、射水郡式内社13座の最後に配列されているのは、創立年次が最も新しいことを暗示しているのではないか、と推察した。さらに同書では、射水神社を名神大社とする「出雲本」が古い時代の形を留めており、『白山之記』[6]にある一宮争いの記事などから、本来の名神大社は射水神社であったのが、国府に近い当神社が、天平宝字元年(757年)前後に気多大社から勧請された後、国府の権力を背景に名神大社を獲得したのではないか、と推測している。六国史を通覧した際も、同じ越中国の射水神社や高瀬神社が6度登場するのに対し、当神社に関する記載は全く無く、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では「不思議な現象と見るべきであろう。」と述べている。『高岡市史 上巻』[3]においても、軽々しく判断はできないと前置きした上で、勧請の由来などから考えて「出雲本」に従うのが妥当ではないか、と考察している。