2016.01.08更新

雄山神社


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        雄山神社

所在地 富山県中新川郡立山町域内に3社
主祭神 伊邪那岐神
天手力雄神
神体 立山神体山
社格 式内社(小)
越中国一宮
国幣小社
別表神社
創建 (伝)大宝元年(701年

雄山神社前立社壇(おやまじんじゃまえだてしゃだん)

雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町にある神社。旧称は立山権現・雄山権現。式内社越中国一宮旧社格国幣小社で、現在は神社本庁別表神社
霊峰立山神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。また、元明天皇後醍醐天皇の勅願所でもあった。
峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。
岩峅寺及び芦峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味がある。
峰本社、祈願殿、前立社壇の三社は三位一体の性格を持っているため、どの社殿に参拝してもご利益は同じとされている。これは山頂の峰本社には旧暦の7月〜9月までしか参拝できない点及び、祈願殿は主峰雄山を正面に頂き開祖が晩年を過ごした点、前立社壇から立山開山の話が始まるなど、三社が各々独自に立山信仰に深く位置付けられている点、加えて古くは岩峅寺の前立社壇より山頂の峰本社まで宮司が歩いて通ったと伝えられることや今でも前立社壇の宮司が峰本社の宮司である事にも由来される。
創建の年代は不詳である。社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或はとなり、或はとなり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。また、大宝3年(703年)に釈教興が勧請したとも伝える。
所在地 富山県中新川郡立山町岩峅寺1番地
位置 北緯36度36分27.48秒
東経137度18分53.40秒
本殿の様式 流造
例祭 4月8日
主な神事 岩峅稚児舞

前立社壇は、平安初期に建てられた立山寺(岩峅寺)を前身とする神仏習合の施設。岩峅寺における立山信仰の拠点であった。
開祖佐伯有頼が、立山権現の化身である白鷹によって導かれた岩窟の正面に位置し、この地より立山開山の伝説が始まった。 武将や公家からの信仰も篤く古来より「立山権現」への献上品はこちらに奉納された。
立山に入山する者の身の穢れや罪を湯立ての神事にて祓い、道中の無事を祈願した。 現在も周辺には宿坊や旧登山道、石仏などが点在する。 宿坊には立山曼陀羅が現在でも残されており、全国の門徒に立山信仰を広めた。
また、脇を日本一の暴れ川と称される常願寺川が流れ、たびたび水害をもたらした事から、現存の規模になっているが、この施設から流されたものが、御神体になって作られた神社が、下流地域にいくつもあることから、昔は今よりも大規模な施設であったと推測される。
佐伯有頼が建立した当時の建物はすでに古文書の中にしか無く、現在残っているものは源頼朝が修復・再建し、足利義材が修復したものが受け継がれている。その為か神社の建物に菊の紋章が入っていない珍しい神社でもある。
立山信仰の入り口に位置している特性上、本殿を挟んで両脇に鳥居(表鳥居・東鳥居)と神門(表神門・東神門)が存在する作りもこの前立社壇の特徴の一つでもある。